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●全日本プロレス「オープン選手権」と猪木VSビル・ロビンソンの1975年。その3 [「言葉」による革命]

●全日本プロレス「オープン選手権」と猪木VSビル・ロビンソンの1975年。その3

末尾ルコ「プロレス観戦で知性と感性を鍛えるレッスン」

1975年の全日本プロレスオープン選手権。
開幕戦でドリー・ファンク・ジュニアVSアブドーラ・ザ・ブッチャーという「夢のカード」が実現した。
このカードがいかに大きな「夢」だったか、今のプロレスファンにはピンと来ないだろう。
「正統派」でかつ「世界最強」という幻想をかなりの(日本の)プロレスファンの間で共有されていたドリー・ファンク・ジュニアと、お馴染み「悪の権化」であるアブドーラ・ザ・ブッチャーが対戦すれば、「いったいどんな試合になるのか?」という、「かつて観たことないものを目撃する」ビリビリした興奮とでも言おうか。
試合はドリーがブッチャーの椅子攻撃をかわしたり、ブレーンバスターで投げたりと、「さすが、ドリーだ!」と思わせる展開で満足はしたが、結果はブッチャーの反則勝ち。
と言うか、30分一本勝負で戦われたオープン選手権公式戦、やたらと引き分け、両者リングアウト、反則決着などが多かった。

どころで同様にこのオープン選手権に参戦していたハーリー・レイス。
この当時はまだ「金髪」だったのである。
NWA王座に返り咲いてからはブラウンの髪になったハーリー・レイスだが、わたしは金髪のハーリー・レイスがより好きだったのだな。

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いっぷく

オープン選手権の時は、負傷したことにして挨拶しているときにシャツを破られましたね、ハリー・レイス。
そのとき、自分だって因縁があると飛び出してきた大木金太郎に、おもしろ困った笑いが漏れてしまいました。
せっかくレイスとブッチャーという抗争を作っているときに、それを拡散させてしまうような参加の仕方がいかにも大木金太郎らしいなあと思ったのです。
ミスター高橋の本によると、大木金太郎は興奮すると「ブック」を忘れると書いてありましたが、目立つことについては計算高いと思います。
名古屋の馬場エリックのインター戦や、馬場がキニスキーにタイトルを取られたインター戦では、ナンバー3だったはずなのに馬場のセコンドをつとめています(もちろんナンバー2の猪木はそこにはいません)。エリック戦では、付き人のクツワダの仕事を奪って(笑)、馬場の流血の手当までしているのです。そういう目立ち方はグレート小鹿の十八番ですが、きっと大木金太郎から学んだのかも。
そして、猪木が初めてドリーのNWAに挑戦したときも、ちゃっかりセコンドについていたし、第13回ワールドリーグ戦のデストロイヤーとの決勝戦でも猪木のセコンドに付いていました。そのときもうひとりセコンドだった上田馬之助は猪木シンパでしたが、大木はそうではなく、ただ目立ちたかっただけだと思います。
何しろ猪木追放のときも先頭に立っていましたし、坂口征二が猪木との合流の話をつけたときも反対したわけですから。
韓国のインター戦は猪木や稲妻二郎が急に反則魔になって、大木が不自然な大流血をするし、ミスター高橋の本によると、高橋がナイフをあてて切りすぎたのに褒められ駄賃までもらったそうですね。
もっとも猪木も、東京プロレスから日本プロレスに出戻ってからは、少なくとも第11回ワールドリーグに優勝して「BI」と並び称せられるまでは、馬場のセコンドを熱心につとめていましたが(笑)
馬場はみんなに大事にされているようで実は利用されてたわけですね。それがナンバーワンの宿命ですが。
プロレスは試合だけでなく、セコンドの顔ぶれや動きを見ていると、いろいろ思惑が読めて面白いですね。
by いっぷく (2017-01-30 02:50) 

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