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●『ダンスマガジン』と『Newton』のバックナンバーをBOOK OFFに売った場合の価格を考えながら、掛け値なしで「別荘なんぞ、いらない」と観照する。 [「言葉」による革命]

●『ダンスマガジン』と『Newton』のバックナンバーをBOOK OFFに売った場合の価格を考えながら、掛け値なしで「別荘なんぞ、いらない」と観照する。

末尾ルコ「人生論の話題で、知性と感性を鍛えるレッスン」

家の中に新品同様の『ダンスマガジン』と『Newton』が素敵に平積みされている。
『ダンスマガジン』は新書館が発行、『Newton』はニュートンプレスの発行だ。
『ダンスマガジン』はバレエを中心としてダンス専門誌で、『Newton』は科学雑誌であり、どちらも価格1000円を超すブルジョワ(笑)雑誌と言えるだろう。
そして今まさにわたしの目の前にある『ダンスマガジン』と『Newton』のほとんどは「貰い物」なのだ。
いや、かつてわたしは毎月『ダンスマガジン』を購入してはいた。
今はしてない。
理由はそもそも『ダンスマガジン』は、写真以外はさほどわたしが必要とするページはなかったこと、そしてバレエやオペラを催す日本の劇場に対する不満がかなり溜まっていたこともその一つだ。
さらに言えば、ネットでバレリーナたちの画像や動画がいくらでも見つけられる昨今、贔屓のバレリーナでも必ずしも満足できる写りの写真が掲載されているわけではない『ダンスマガジン』に対する不満も大いにあった。

などと言うのはこの度は余談であって、現在のわたしが迷っているのは、この人から貰った『ダンスマガジン』と『Newton』の山をどうしてくれようかというテーマである。

『ダンスマガジン』も『Newton』も、いくらでも時間があればじっくりと読むだろう。
しかしただでさえ自室の至る所に「本の山脈」や「本の氷河」がある現状、これら二つの雑誌にかける時間がそうそうあるとは思えない。
売るか?
しかしBOOK OFFなどに持ち込んで、新品同様で元値が1000円以上の雑誌を「10円」とかで飼われては敵わない、いくら「貰い物」であってもだ(笑)。
いや、かつてそのくらいの値段で買われたことがあったような。

いや、わたしが抱える根本的な問題は、『ダンスマガジン』と『Newton』のことのみではない。
増え続け、人間の居住領域を侵食し続ける「本」をどうすべきかが問われているのだ。
「捨てる」という選択肢は無論いつでも魅力的だ。
最も簡単で、ほとんど労力ゼロである。
そして言うまでもなく、人間、死んでしまえばすべての「モノ」を手放すことになる。
イエス・キリストが「富は点に積め」と言った(とされる)のは、「地上の富の虚しさ」のみを語っているわけではないけれど、もちそんその意味も含まれている。

もちろん、「ある程度以上の経済状態」では、わたしもありたい。
けれど億万長者とか、「世界中に別荘が何十も何百も」とか、そういう人たちに対しては、ある意味(可哀想だな)と思っている。
そんな莫大なお金、有効に使えるものではないし、いくら別荘を持っていても、時間や空間の制約を考慮すれば、生涯の中でフルに使いこなせるわけはないだろう。
もちろん「素晴らしい企業を立ち上げて、多くの理想的な雇用を生む」ということができれば素晴らしいけれど、こうした「理想的な企業」が有史以来どれだけ存在するというのか。


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いっぷく

私は火災で、仕事の資料、プロレスを含めた趣味の書籍や雑誌、趣味プラス子供のおもちゃのNゲージ、学校時代のアルバムや卒業証書などを焼失しました。というか、全損なのですが。
妻は子供の頃からのアルバムも焼いているので、形として残っている過去はないのです。私は子供の頃のアルバムだけはかろうじて実家に置いてありましたが。
で、実家にとりあえず寝泊まりしたわけですが、母がちょっと衰えていて、現象的には認知症の初期にありがちなふるまいで、何か注意すると激昂するとか、まあ考えてみると母の人格はもともとそんなもんだったのですが、火災で近所から見られて外聞が悪いとのことで不機嫌なことが根底にはあったようです。
でもどんな事情や心境であれ、火災で無一文で家族も危ない息子としてその態度は、親として人として受け入れがたいものであり、そのうち妻が退院して3人で過ごしたのですが、実の親子の諍いで妻が困っているようだったので、次男の退院にあわせてマンスリーマンションに転居したのです。
さらに、そのとき、妹は親の面倒を見たくないために弁護士までたててきたのですが、母に自分の勝手な言い分を述べ、私と諍い中だったこともあって母はそれを鵜呑みにして、さらに親類までが妹に加勢したのです。
その一方で、たった1年しか一緒ではなかった長男の幼稚園時代のママ友が、火災後古着を集めてくれたり、いろいろ動いてくれまして。長男は電車通園で地元ではなく当時はそんなに親しくなかったのに、そういうこともありました。

で、そういう経験をしてきた私の持論は
「物はなくても生きていける」
「人のしがらみに至ってはない方が生きやすい」
ということです。

子供の頃からのアルバムとか焼失したのは寂しいですが、死んだらそれはゴミでしかありませんし、生きるその時時で必要なものがあればいいのだなと思いました。
人のつながりも、自分にとって不都合な人とは、たとえ血縁だろうが躊躇せずお別れした方がいいと思っています。
よく、「何で世話になるかわからない」などといって、惰性で、何年も会っていない人にも年賀状をせっせと書いている人がいるのですが、そんなもの出さなくても、動いてくれる人は動いてくれるし、出してもダメな奴はだめなことを私は知ってしまいました。
親類に対しても、私の両親は付き合いが深すぎるなあと思っていたのですが、とくに母親の距離のとりかた(近すぎ)が不満で、そしてその不満は向こうに伝わるらしく、私は親類との関係がもともと良好とはいえず、それもあって、親類は妹に加勢しているのです。
まあそういう意味では、改めて親こそが私の不幸の元凶と思わせるわけですが、親だけは、どんな親でも親は親という複雑な思いもあり、自分の人生において両親をどうとらえるかというのは、なかなか答えの出ない命題です

で、その後は、必要なものを最小限購入して、置けなければすてるという生活をしていますが、今日、新たに購入したのが、辰巳出版の「実録・国際プロレス」と、タツミムックの国際プロレス特集です。
ラッシャー木村の息子2人が実子でないことは聞いたことありますが、息子がそのへんについて語っているので、ラッシャー木村の生き様を今、年末の片付けもせず読んでいます。
by いっぷく (2017-12-30 09:55) 

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