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●星野仙一らしい死・・・そして川崎徹の言った「華」について。 [「言葉」による革命]

●星野仙一らしい死・・・そして川崎徹の言った「華」について。

末尾ルコ「人間の生き方の研究」

「華がある」という言葉が一般的な表現として人口の膾炙し始めたのは、これは何ら確証のないわたしの印象に過ぎないが、確か巨人戦の中継中にゲストに来ていた川崎徹が江川卓を評して使って以来だと思っている。
川崎徹は江川に対して、「華がある。いつまでも見ていたい」などと言い、山本浩二に対しては、「実務的な感じがして」と、まるで「まったく華がない」とでも言いたげな感じを受けた。
わたしは広島カープのファンだったから、愉快な気分では聞けなかったし、江川に「華がある」ということは分からないでもなかったが、当時の広島カープはチームも選手たちも不当なまでの不人気に苛まれていた。
その中でもちろん山本浩二は別格の人気と知名度を誇っていたが、「実務的」と言われればそんな気もしないでもないことも嬉しくなかったし、反面、(結局山本浩二が巨人にいたら、とんでもない大スター扱いになっていたに違いない)という確信もあった。
衣笠も「鉄人」と呼ばれ、知名度は非常に高かったが、オールスターファン投票で選ばれるようなことはそうそうなかったし、今でこそ「昭和の大投手」としてブログでも人気の北別府も、わたしの感覚からすれば、東急感覚は非常に長かったが、極めて「華がある」投手だったのだけど、全国的にはまったく人気がなかった。
それだけ巨人に人気が集中していた時代だったのであり、関西地方はもちろん阪神に人気が集中していた。
広島カープは、初優勝の時から古葉監督で2連覇するあたりまでは観客もよく入っていたが、その後はどんどん動員力が落ち、巨人戦でさえ閑古鳥が鳴いている状態だった。

「華がある」とは一体どういう状態なのだろう。
他の言い方をすれば、「カリスマ性がある」、あるいは「強いオーラがある」とか、そんな表現もある。
この場合の「オーラ」は、インチキ「スピリチュアル・カウンセラー」が「あなたのオーラの色は~」などと嘘八百で使う意味の「オーラ」とはまったく異なる。

わたしはプロ野球投手としての星野仙一の全盛期を観てはいない。
そもそも現役時代の長嶋茂雄も観てないし、長嶋引退の時の大騒ぎは記憶しているが、(何を騒いでいるのだろう)と漠然と感じていただけだった。
ただ、星野仙一は現役の終わり口のピッチングはよく覚えている。
顔立ちはなかなかの男っぷりだが、体つきは寸胴で、顔が大きく脚が短い。
星野の「華」あるいは「カリスマ性」とは、持って生まれたものと言うよりも、「自ら創り上げた」・・・そんな印象が強い。

「ファンたちには決して弱いところを見せなかった」・・・星野仙一らしい最期だったと思う。
「70歳で」というのはとても残念だが。

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いっぷく

まあ人の評価はいろいろなので、断言はできませんが、セルフプロデュース+マスコミによってイメージが作られていく面はありますね。
例によって、亡くなってからは星野仙一美化追悼が続いていますが、鉄拳制裁はかなり問題になっていたはずです。
なのに、上司にしたい人アンケートでは、いつも上位にいるのは、なんだろうなあと思っていました。
ONも、王は人格者で「王さん」と神格化され、長嶋はおっちょこちょいで破天荒の天才でというような描き方をされていますが、実は王監督は大酒飲みで、面白くない試合だとトレーナー室のベッドをひっくり返すとか、コーチと言い争って酒を引っ掛けあったとか、一方の長嶋は小食で早めに切り上げ、夜、こそっと練習をしているとか、マスコミが描いた像とは少し違うエピソードはたまに聞きますね。
BIと同じで、そういう表向きとの落差が大きいのは個人的には面白いですけどね。
広島は、以前書いたように赤ヘル以前の頃の外木場の印象が強烈ですね。あとは金城基泰。1974年は、金城と外木場だけで38勝しているのにあとが続かず最下位で森永監督の首が飛びましたが、森永監督の息子はエデン馬渕と結婚したんでしたね。事件を起こして新聞沙汰になってはじめて知りました。

サムスティムボートは、子供の頃の記憶しかないので、脳内でかなり美化されている可能性がありますが(笑)、ルー・テーズのレスリングと吉村道明のマインドをもったレスラーですね。
「強さ」を誇るレスラーというのは、ビル・ロビンソンのように受けが積極的でない、カタイレスラーが多いのですが、サムスティムボートは、受けるし、受けながらもいつのまにか自分が攻撃しているという、地力のあるプロレスで、でもレスラーとしてはタッグマッチでエディ・グラハムを支える役割でした。
リッキー・スティムボートが、血縁関係もないのに、スティムボートを名乗って、サムスティムボートの甥と言って売り出したのも、フロリダでは評価されているレスラーだったのだと思います。
エディ・グラハムは、わりとラフファイトもOKで、全日本に来たこともあるのですが、馬場と手があっているようでしたから、グラハム、スティムボートはBI砲とやっても面白かったですね。
日本プロレス時代の最強外人タッグは、私はウイルバー・スナイダーとダニー・ホッジ組だと思っているのですが、ホッジは正直馬場とはあわない感じでしたが、馬場とスナイダーは90分3本勝負とかやってましたから、こちらは馬場向きでした。
エディ・グラハムは、NWAの中では中立かもしくは反主流で、どちらかというと猪木側だったはずですが、馬場個人との関係は悪くないようで、馬場が全日本を作ってから、フロリダに行ったときも、「東洋の悪魔」に戻って、ダスティ・ローデスに反則負けをしたこともあります。
当時のテリトリー制のプロレスは楽しかったですね。
by いっぷく (2018-01-13 09:58) 

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