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●末尾ルコ「平成史」~と言っても、今回は、平成前夜(1988年)の美空ひばり、カルガリーの伊藤みどり、そして『平凡パンチ』休刊などについて語るし。 [「言葉」による革命]

●末尾ルコ「平成史」~と言っても、今回は、平成前夜(1988年)の美空ひばり、カルガリーの伊藤みどり、そして『平凡パンチ』休刊などについて語るし。

末尾ルコ「平成史と昭和史の話題で、知性と感性を鍛えるレッスン」

平成元年が1989年であるならば、1988年はまだ昭和であるはずだ。

1988年はソ連のミハイル・ゴルバチョフがペレストロイカをスタートさせたとされる年であり、ゴルバチョフはまだ「書記長」だった。
4月には美空ひばりが東京ドームで「不死鳥コンサート」を開催しており、これは今でも日本芸能史上最高の歌姫の伝説として折に触れ取り上げられている。
わたしも当時、このコンサートをテレビで放送していたことについては記憶に新しいが、まだ「美空ひばりが何たる人物か」まったく理解していなかった。
当然ながら、美空ひばりの人生についてもまったく知らず、なぜこんなに大騒ぎするのか、何が不死鳥なのか、理解できず、コンサートの放送を観ることもなかった。

この5月8日、『うたコン』で丘みどりが美空ひばりの「リンゴ追分」に挑戦した。
必死で歌うその姿は美しく、近年の民放地上波の歌番組としては極めて稀な、「歌い姿の美」が生放送で多くの人々に届けられた。
同時に「リンゴ追分」がいかにも難しい歌だということもよく理解できた。
現在美空ひばりの歌を歌唱すれば、天童よしみが図抜けて美味いだろう。
声質的にも技術的にも美空ひばりと多くの共通点がある。

この年カルガリー冬期五輪が開催されていて、女子フィギュアスケートでカタリナ・ビットが金メダルだったのだが、わたしはビットのスケーティングにはまったく感心せず、メダルには届かなかったが、ジャンプ&回転の剛球のみで攻める伊藤みどりに魅了された。
それはカルガリーにいた会場の観客も同じことだったと見受けらた。
伊藤みどりが登場した時の観客たちの雰囲気、一発目のロケットのようなジャンプ時に起こった大歓声、さらにその後、芸術点など無視するように驚くべきジャンプ&回転を連発する伊藤みどりに大観衆もテレビの前のわたしも熱狂した。
伊藤みどりの体型ではいかにダンス技術を磨いても、「美しい」と観客に溜息をつかすことは難しく、ただ誰にもできない驚異のジャンプを連発する姿こそにわたしは「美」を感じた。
その後日本人としては、荒川静香や羽生結弦の金メダルがあったけれど、「最高のインパクト」という観点ではいまだにわたしにとって、「カルガリーの伊藤みどりである。

この年、 週刊誌『平凡パンチ』が休刊になっている。
わたしが高校の時期、同級生の9割以上はアホばかりで(笑)、その中でも極め付きの一人がいて、「『プレイボーイ』や『平凡パンチ』を購読している自分」に対して奇っ怪なプライドを持っていた。
ある日わたしに対して、「お前、『プレイボーイ』とか読んだことないろう(←土佐弁)」などとのたまうレベルであり、読んだも何も、わたしは既にずっと大人な世界の書物を深く読み込んでいた(笑)のだけれど、当時はそうしたアホに何を言っても無駄だという徒労感だけがあった。
もちろん『プレイボーイ』や『平凡パンチ』を読んでいた人が「アホ」というのではなく、この同級生のようなスタンスを「アホ」と述べているだけである。

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いっぷく

リンゴ追分は、美空ひばりが一気に芸能界の頂上に君臨した歌ですね。
翌年の「お嬢さん社長」という映画も見ました。もちろんリアルタイムではないですが。
川島雄三監督で、佐田啓二が出ているのです。以来、美空ひばりが映画会社の有力な俳優と共演してあげることで、その俳優が出世するというパターンができました。中村錦之助などはその典型ですね。
ただ、別の見方をすると、美空ひばりが天賦の才で大きく羽ばたいたのは「リンゴ追分」までで、あとはいろいろなしがらみをかかえての芸能生活になったので、その良し悪しの評価は措くとしても、とにかくそれまでとは抱えているものが違う芸能生活になったようにおもいます。ひとつは両親、とくに母親の存在。もうひとつはやはり神戸芸能社ですね。美空ひばりが神戸芸能社の専属になリ、一方で三代目がひばりプロダクションの副社長になるなど相互にコミットした関係だったことはすでに明らかです。鶴田浩二襲撃事件があって、美空ひばりは鶴田浩二のことも慕っていたそうですから、心中複雑なものがあったでしょう。その一方で、襲撃した若衆(後の三代目若頭)が別件で収監されたとき、慰問に行って名指しして励ましたというエピソードもピカレスクロマンの読み物には出てきます。結局その関係が紅白からの「卒業」につながってしまったわけです。三代目の事業家としての慧眼は評価する識者もいて、神戸芸能社の力によってプロモーション活動がうまくいった面は確かにありますが、ただそういうしがらみがない美空ひばりだったらどうなっていただろうという興味も正直あります。
いうなれば、「1952年の美空ひばり」は、「1964年のジャイアント馬場」と似てますね。馬場もアメリカでトップレスラーとなリこれからというときに、やはり日本プロレス協会副会長だった三代目の直々の依頼で日本に帰ってきたと柳澤健の本には書かれています。日本では、児玉誉士夫の作った東スポとその筋の興行と三菱電機の力で馬場は日本プロレス界トップスターになりましたが、すでに全盛期をすぎてからも猪木と競わされて経営者としても苦労してしまいました。サンマルチノいわく、アメリカにいたら、向こうのベルトで各地をサーキットしたレスラーになっていたかもしれません。はたしてどちらがよかったのか。

平凡パンチは、小学校の頃、マセた奴が「平パン」と略していっていて、それが「ナウ」なのだと思った私も真似していました(笑)でも火曜日の「プレイボーイ」と木曜日の「平パン」の出る日は、新聞広告がでるのでいつもドキドキでしたね。淡い恋心を抱いた女性がヌードになると、やはりショックを受けました(笑)
by いっぷく (2018-06-01 05:16) 

hana2018

「美空ひばりが何たる人物か」まったく理解していなかった。・・・のは全くもって同じです。
亡くなる頃まではただお化粧の濃い、衣装センスの悪いおばちゃんくらいにしか見ていませんでした。今思うと、今の私よりもずっと若かった、独特なムードを醸し出すあのコスチュームにも意味があったと言う事なのですけれど。。
彼女の歌が心まで届いたのは、なぜかタイ・バンコクのホテルで見たオカマショーで流れた一曲でした(笑)
なぜあの時にあれ程、美空ひばりの歌「川の流れのように」を聴いて感動したかは不思議ながら・・・ああ、こんなに良い曲なんだと。
高音まで伸びる、変幻自在な歌の上手さを実感したのは亡くなってから10年以上も経ってからでした。それまで見えていなかった彼女の偉大さ、比類なき歌の上手さに目覚めた訳ながら、それには私自身年齢を重ねたのも関係していると思えてなりません。
やくざとの関係、被差別部落出身と言った影の部分にも、きっと馴染めずにいたからなのでしょうね、
女子フィギュアスケートの伊藤みどりで思い出すのは、当時の女子選手でトリプルアクセルの成功者トーニャ・ハーディングです。
女子フィギュアスケートのもつお嬢様っぽいイメージとはそぐわない、周囲も含めたプアホワイトなムードは、ライバルであったナンシー・ケリガンとはあまりにも対照的でわかりやす過ぎました。
それもあって映画化までされた訳ながら、20年以上経つ現在の彼女も期待を裏切らない太めの体型、そのライフスタイルが想像されます。
by hana2018 (2018-06-01 17:17) 

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