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●『トラック野郎 故郷特急便』、菅原文太と石川さゆりの「雨のシーン」に感銘を受けつつ、我が人生のスタンスに思いを馳せる。 [「言葉」による革命]

●『トラック野郎 故郷特急便』、菅原文太と石川さゆりの「雨のシーン」に感銘を受けつつ、我が人生のスタンスに思いを馳せる。

末尾ルコ「映画と人生について考えつつ、知性と感性を磨くレッスン」

映画『トラック野郎 故郷特急便』の中に、土砂降りのシーンがあるんです。
と言っても、登場人物は室内。
室内からの降りしきる雨、降りしきる雨からの室内と、どちらのショットもあるのだけれど、これがもう、もの凄くいいんです。
沁みる。
映画ならではの快楽。

本物の雨や本物の風・・・これは舞台では表現不可能だし、文学でも同じことだ。
テレビドラマは映画と同じ映像ジャンルとして表現可能だが、スクリーンに映し出される雨や風と迫力は比較にならない。
そして多く映画の雨や風は自然現象をも上回る表現を生む。
その歴史的な見本の一つが、黒澤明監督『羅生門』の冒頭のシーンだ。

しかし、『トラック野郎 故郷特急便』の雨は、決して「迫力」を表現しているわけではない。
夜。
部屋の中。
バーやキャバレーで聴く気のない客を相手に歌わざるを得ない、売れない歌手の石川さゆり。
相手はもちろんトラック野郎菅原文太。
基本、『トラック野郎』は、ストーリーもテンポも、画面構成も奇天烈な展開を繰り返すのだが、その中で唐突に心に沁みるシーンが現れるところがまたおもしろい。
『トラック野郎 故郷特急便』の雨のシーンは、高知へと向かうフェリーの上で出会った菅原文太と石川さゆりが語らう時間が中心だ。
しがない流しの歌手の石川さゆりは、その到底報われなさそうな日々の生活の苦悩をたんたんと語る。
そこへ彼女の友人の歌手が酔いどれて入ってくる。
友人は地元の有力者に無理矢理ホテルへ連れて行かれたと嘆き、「こんな人生、もう限界だ」とばかり、嘆きつつベッドに身を投げ出す。

こんなシーンも、高校時代にわたしであれば、ほとんど気にも留めなかったかもしれない。
しかし今のわたしには、奇天烈な展開の中の『トラック野郎』の中のこのシーンがとても心に沁みるし、もちろんそれは映画的快楽をもたらしてくれるシーンに対する感謝の気持ちも含まれている。

わたしは今まで、「こんな人生、もう限界だ」と思ったことはない。
と言うよりも、「絶対思わないようにしている」のだ。
「弱音は吐かない・愚痴を言わない」は、わたしの人生の重要なスタンスであり、これからも変えるつもりはない。
こんなスタンスだから、間違いなく年上の人たちからは(可愛げのないやつ)と思われ続けてきたのだろうし、仲間内で愚痴を言い合ったりもしないので、人間関係もずっと狭くしてきているのだろう。
しかしわたしはもう自分のスタイルを変えるつもりはないのだ。
「似非友人」ならいくらでも作れただろう。
そんな「取り組み」をしていた時期もある。
が、「自分を変えて」まで空虚な時間に同v長することはできないのだ。

などと、『トラック野郎 故郷特急便』を鑑賞して、こんなこと書く人間はそうそういないだろうが。

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いっぷく

『トラック野郎』は全て見ましたが、後半のせんだみつおが出てきたあたりからはそんなによく覚えていないのです。石川さゆりのは最終話ですね。たしか普通にフラれるのではなく桃さんが身を引く唯一の回だったと思いますが、正直よく覚えていません。

>奇天烈な展開の中の『トラック野郎』の中のこのシーンがとても心に沁みるし、も

普通にやったら寅さんにはかなわないので、ハチャメチャで下品にやろうということだったのですが、最初の頃のハチャメチャがいささか影を潜めて、だんだん普通になっていったので、そういう意味では潮時かなとおもってみていた記憶があります。
仕事のない時はソープにいるはずですが、回を追うごとにそういうシーンもだんだんなくなってきましたし、桃さんも年をとってきたんだなとおもいました。

雨のシーンと言うと「喜劇よさこい旅行」が印象に残ります。フランキー堺が田舎の駅員で、倍賞千恵子とうまくいってなくて、駅長の伴淳三郎の娘の長山藍子に夢中になるのですが、ある日嵐の日にがれ崩れがあって、列車を止めなければならないことなり、フランキー堺は裸になって赤いフンドシを必死になって振って、ギリギリのところで列車を止めたというシーンが印象に残っています。
喜劇列車シリーズは、機関士の伴淳三郎とか、仕事に打ち込む者の美しさを描いていますが、倍賞千恵子は奔放な役に描かれていることが多く、フランキー堺とはやたらキスシーンがあります。どちらかというと、長山藍子の方が大人の魅力で描かれていました。
まだ『男はつらいよ』が始まる頃は、瀬川昌治監督はそのような位置づけで演じさせていて、男はつらいよを山田洋次監督が本気で撮り始めた6作目の若尾文子編あたりから倍賞千恵子の描き方がかわっていったようにおもいます。

私は別に似非友人は要りませんが、愚痴も弱音も言いまくっています。自分を大きく見せたいとか、人によく思われようという意識がないから、そのへんはもう開けっぴろげで、それに対してどうこう言ってくる人間には、じゃあ自分はどれだけ立派なの?と言い返す用意もあるし(笑)
by いっぷく (2019-02-26 04:53) 

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