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●我が母、心臓バイパス手術後闘病記53日目~「家へ帰る!」と叫んだ母との2時間以上にわたる対話~欠落した手術前後の記憶。 [「言葉」による革命]

●我が母、心臓バイパス手術後闘病記53日目~「家へ帰る!」と叫んだ母との2時間以上にわたる対話~欠落した手術前後の記憶。

末尾ルコ「母の話、健康医療の話題」

5月11日(土)手術後53日目
転院18日目

この日午後4時くらい。
3度目の面会へ行くが、病室へ着く前にナースステーションの中に母の姿が見える。
傍らにいる看護師が「息子さんは来てくれたよ」と言っている。
何かあったのだろうか。
近づくと、母の表情がいつになく硬い。
「もう帰ると言い出したんですよ。それでちょっとここに来てもらってます」と看護師。
滅多に見ることのない母の強張った表情に(どれだけのストレスが溜まっていたんだ。精神の崩壊もあり得るのではないか)と、わたしも動揺する。
ナースステーションの前で少し話をした後、広いスペースへ車椅子をついていき、母との対話を試みる。
先ほどの看護師や普段リハビリを担当してくれている若い理学療法士も来てくれて一緒に説得を試みるが、母は彼女たちには耳を貸そうとしない。
わたしの言うことにはもちろん耳を貸してくれるが、それでもすぐに「その理屈はよう分らん」という。
どうすればいいのか、何を言えばいいのか。
わたしの心は、(このまま無理に入院させていたら、錯乱状態にさえなってしまう可能性があるのではない)という危機感でいっぱいだった。

わたしがまず母に語った内容はいつものように、「まだずぐには退院できないけれど、近い将来しっかりした体で家に帰れるように今は辛いけれど頑張ってもらいたい」というものだった。
この話を母は、「その理屈がよう分らん」と言うのだ。
わたしはかなり途方に暮れながらも、

「大変な手術を乗り越えてやっとここまで来たがやき、無駄にしてほしゅうないがよ」

と何度か必死で訴えた。
すると母の表情がやや変わり、「そんなに大変やったが?」と問い返してくる。
ここからの対話であらためてわたしが深く気づいたのは、

「母には手術時、手術直後の記憶がなく、どれだけ危険な状態を乗り越えているのかも理解しておらず、だから既に2か月以上も入院生活を送り、不自由を強いられていることが理不尽に感じていた」ということだ。

高知赤十字病院にいた時期はまだ術後の状態も安定せず、いわば「急性期」が続いていたこともあり、訳も分からず入院生活を送っていることに疑問を感じる暇もなかったのだろう。
転院後、頭の働きもクリアになり、身体的にも腰の痛みが残っている以外は特に不調はなく、足腰の弱体化はまだ大きな壁として存在するが、上半身の力や動きはもう普通に近くなってきている。
こんな状態でリハビリと食事の時間以外は「ベッドの上でじっとしていろ」と言われるのはまるで、「自分が無理矢理閉じ込められ、苛められている」ような感覚があったのだと言う。

わたしは2時間くらいかけて、手術直前の状態がどれだけ危険だったか、手術自体も高齢者にとってどれだけ危険だったか、そうしたことをすべて見守ってきているわたしの気持ちがどうだったか、そしてそれらを乗り越えてようやくここまできていることなどを必死で説明した。
母は時折涙を流しながら、「そうやったがかえ、そんなに大変やったがかえ」と徐々に納得してくれてきたようだった。

この日のことは一回分の記事では語り尽くすことはできない。
そして今後も母の精神的動揺が出現する可能性はいくらでもある。
しかしこの日の対話はとても重要な時間であり、わたしもあらためて、(どんなことがあっても、母にとことん付き合ってやる)と腹をくくったのだった。

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いっぷく

私の母は、2年前の秋に血だらけでトイレでへたっているところを、見守りの人が見つけてくれ、私に連絡がきて、その人が「出血もひどいし救急車を呼んだほうがいい」ということで、救急車を初めて呼びました。で、入院してからその話をしても、血だらけのことも含めて覚えていないというのです。
妻も火災の時、自分で119番したなど当時の状況を見ているのですが、意識が戻って火災前の記憶は戻ったものの、火災時の記憶が戻りません。
妻が回復したら事情を聞きたいと警察は言っていたのですが、結局それは実現しませんでした。
大変な記憶は捨て去ってしまうか封印してしまうかのような機能が人間の脳にはあるのかもしれませんね。

>おそらくわたしの父だけでなく、世の中そうしたパターンは多いのだと思います。

そうですね。私もそのパターンに含まれるかもしれません。
私が、「決められない、断れない」人間になったのは、ひとつには、人生に対して明確なビジョンや希望を描くことをしなかったので、自分に自信も拠り所もなく、他者に引きずられてしまうことが習性になってしまっているのだとおもいます。
それは、山師の父と、学校のブランドのみに執着する母という環境だったことが大きいと思います。
とくに父には、子供の頃漠然と憧れた仕事を全部「給料が安いからだめだ」と否定され、一時期私が尊敬した小学校の担任の先生のことも、「俺はその先生の10倍の金をとっている、その事を忘れないように」と言われ、さすがに子供でもその威張り方はおかしいと思いました。
そもそも父の「10倍」というのは会社としての上がりなので、経費を引いたらそんなに残らないんですが、いずれにしても、両親の価値観の幅の中で、子供はいろいろ考えるといわれているのに、2人ともおかしいから(笑)将来なりたいものを主体的に描くという方向には導いてもらえなかったですね。
by いっぷく (2019-05-17 04:34) 

ぽちの輔

確かに、危なかった事を覚えてなければ
我慢する気も出て来ないでしょうね^^;
by ぽちの輔 (2019-05-17 07:42) 

ニッキー

お母様、手術前や手術後の記憶が曖昧だったんですね。
確かにそれだと「どうして?いつまでここに?」って
なって「自分はこんなに動けるんだから退院出来る」って
考えても不思議じゃないかも・・・
今回しっかり話したことで優先順位を守ってくれたら、
早く退院出来るかも=(^.^)=

by ニッキー (2019-05-17 08:09) 

hana2019

いやはや…などと、月並みな言葉を並べても仕方がないけれど、本当にお疲れさまでした。
しかしお母上がこうして言葉に耳を傾け、お話しを聞くきもちになられたのも、一番に信頼のおける、愛する息子さんだったなればこそ。
RUKOさんのお母さんの場合は、心臓手術前後の記憶が途切れてしまっていらした訳ながら。
我が母、そして自分自身についても、人間一定年齢に達すると、喜怒哀楽、躁鬱状態のコントロールがきかないようになる。この部分は幼子に戻ってしまうと言う事でしょう。
私も明日は怖いような気持ちながら、実家の母の様子を見てまいります。
by hana2019 (2019-05-17 11:53) 

(。・_・。)2k

痛かったり怖かった事は脳から抜けますからね
元気になってきてるからこそ帰りたいんでしょう
リハビリも順調だと余計に 帰れると思うと思います
ここがお母様の頑張りどころですよね
上手くRUKOさんが励まし続けるしかありません
RUKOさんも体壊さないように頑張って下さい

by (。・_・。)2k (2019-05-17 13:35) 

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