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ネオアンガージュマン 「お芸術」をお仲間内で悦に入る時代じゃないっス! [ネオアンガージュマン]

まったく社会に影響力のない「お芸術」。
ああ、わたしは「お芸術」、嫌いじゃないですよ。
でもね、「このままでいい」と思っているのであれば、いずれ「お芸術」なんて暇人の慰みものになる。
いや既になっているという見方も。
「このままでいい」と思っていなくったって、「このまま」にしてるとすぐに「このまま以下」になってしまうよ。
仲間内で芸術論、文学論、映画論・・それも楽しいさ。
けれどそんなことをして自足している状態じゃ、もうないと思うんだけどな。

愛をどこまでも掘り下げ、どこまでも高い場所へと導く。その言葉 2011年6月2日 [愛の景色]

好きと、大好きと、何万回、何十億回言っても足りないんです。
などと書くと、「何十億回も言えるのか?」と疑問を投げかける人もいるかもしれません。
でもね。
ぼくが君を心の中で「好きだ、大好きだ」と言うでしょう。
その「好きだ、大好きだ」は一度のようでありながら、数万の「好きだ、大好きだ」が重なり合っていることもあるんです。
意味が分からない?
わたしにもよく分かりません。
それだけ君が好きだということです。

タグ:アート 言葉
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レオノ―ラ・キャリントンと出会うこと。 [生と死のためのアート]

レオノ―ラ・キャリントンが死んだ。レオノ―ラ・キャリントンは5月25日に死んだ。ぼくはレオノ―ラ・キャリントンのファンだったのか?ファンとは誰を言うのか?ぼくの心にいつもレオノ―ラ・キャリントンがいたわけではない。けれど不意に去来するのだ、レオの―ラ・キャリントンの画が。その去来の頻度はギュスターヴ・モローほどではないかもしれない、エゴン・シ―レほどでもないかもしれない。けれどいつだったろうか、初めてレオノ―ラ・キャリントンの画を観た時の清々しい気分はよく覚えている。どんな芸術でも「初めて」会った瞬間とは忘れ難いものだ。レオノ―ラ・キャリントンは死んだ。そしてレオノ―ラ・キャリントンが生まれてから死ぬまでに、ついにレオノ―ラ・キャリントンと出会わなかった人たちがどれだけいることか。

あまりの平和・・、満島ひかりの出ない「おひさま」(・_・;)しかし高良健吾登場! [吉高由里子]

ああ平和だ。う~ん、平和過ぎるよ。平和っていいことです、社会的には。でも表現分野、芸術が平和過ぎるのは問題だ。心を荒らしてほしい、反乱や戦争で、少なくとも「芸術」分野とされるものには。で、「平和過ぎる」と言えば、NHK朝ドラマ。しかし満島ひかりが登場するところに「退屈な平和」はない。しかも渡辺えり子も出ていたし。ところが満島ひかりがほとんどで無くなった途端に「おひさま」はいつものNHK朝ドラマに戻る。嗚呼、平和過ぎる超予定調和の世界。ところが高良健吾が現れた。この映っただけで非日常な高良健吾の危険な端麗さを湛えた容姿。朝から(いい意味で)異様な光景ではある。満島ひかりと高良健吾がテレビの画面で共演するという贅沢過ぎるシーンはいつになるか・・。

ネオアンガージュマン 「高齢者」たちへの「視点」変革 [ネオアンガージュマン]

例えば地方。
高齢化が進む。
人口減少が進む。
「だから高齢者に優しい場所に」
確かに間違いではない。
けれど、それは「守り」の発想のみのように思える。
高齢者は長い年月生き抜いて来た歴戦の勇者たちだ。
まだ高齢に至っていないわたしたちは、そう捉えることによって別の風景が見えて来るのではないか。

重いわ!ソネットブログ!しかも・・ [生と死のためのアート]

え~~い!重いわ!ソネットブログ!
しかも予約投稿しといた記事がアップされてないし!
わりゃあ!
おらおらおらおらああああ!

おっと、わたしとしたことが、ちょっとガラが悪かったねえ(^_-)-☆