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●わたしは見過ごさない [「言葉」による革命]

●わたしは見過ごさない、「愚劣な言葉を使う者たち」を。その者たちは、「言葉を貶めている」だけではなく、「社会」を、そして「人間」をも貶めているのだから。●●●
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極限の愛、日常の愛、その言葉 2017年4月28日 [愛の景色]

(愛なんて、くだらない!)と
虚しさを味わった瞬間から
「真の愛」が始まることも
けっこうあるのですよ。

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〈「言葉」による革命〉・・・●末尾ルコ「映画俳優演技論」~あまりに明るかったソフィー・マルソー、そして『女優マルキーズ』。2017年4月28日 [「言葉」による革命]

●末尾ルコ「映画俳優演技論」~あまりに明るかったソフィー・マルソー、そして『女優マルキーズ』。

・ソフィー・マルソーくらいメジャーな女優になると、しかもわたしはフランス映画を重点的に鑑賞する生活を送り続けている人間だから、たいがいその出演作は鑑賞済みだと何となく思っていたら、あにはからんや、2016年に入って初めて『女優マルキーズ』を観たというお粗末。
灯台下暗しである。
しかしわたし自身はソフィー・マルソーにずっと興味を持っていなかったというのも事実。
幼少の頃よりフランス映画並びにフランス文化に対して並々ならぬ執念を見せてきたわたしであるとうのに、だ。

ソフィー・マルソー。
映画『ラ・ブーム』により日本でも人気が炸裂したソフィー・マルソー。
思えばソフィー・マルソー以後、日本でソフィー・マルソーほど一般的にも名前が浸透したフランス俳優は、男女を問わずいないのではないか。
しかし『ラ・ブーム』のソフィー・マルソーは、わたしにとって明る過ぎたのかもしれない。
確かに『女優マルキーズ』を観ても、とても楽しめる映画だけれど、太陽王ルイ14世の時代、ラシーヌ、モリエールの時代、一世を風靡した歴史的伝説的女優を演じているにしては、極めて明るい。
『女優マルキーズ』という映画の作風自体mソフィー・マルソーに合わせて明るくなっているようだ。
これだけ明るい、逆に言えば「翳がない」、「ない」わけではなかろうが、「翳を感じさせない」フランスのスター女優はなかなか思いつかない。
長きに渡って「フランスの象徴」として君臨しているさえ言えるカトリーヌ・ドヌーヴの、若き日からの翳を見よ!

●原稿依頼などは、気軽にサイドバーのアドレスへご連絡を!

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末尾ルコ詩D「猫、自由は超える」篇。末尾ルコ「今、一番好きな女優、サラ・ガドン論、その美、話し方」その1.~あるいは「主観」と「客観」の働き。 [吉高由里子]

★「末尾ルコ 革命広場」/〈「言葉」による革命・「美」による革命〉[ハート]

★ 「言葉」で「あなた」はもっと強くなれる。
★ 「あなた」が強くなることで、「日本」はもっと強くなる。
高知から日本の隅々まで、末尾ルコ〈「言葉」による革命〉で、あなた自身があなたの住んでいる場所で「革命戦士の一人」に!

[スペード]現在実験的にブログをつついています。
? その一環としてブログテーマや順位は表示しておりません。

●末尾ルコ詩D「猫、自由は超える」篇。

「猫、自由は超える」

その自由とは
虚しさを超え
虚しさを愉しみ
虚しさを食べ尽くす

(毎日、「末尾ルコ詩D」を書いてみましょう!わたしの創ったものを写すのではなく、ご自分で創ってみるのです)

●末尾ルコ「今、一番好きな女優、サラ・ガドン論、その美、話し方」その1.~あるいは「主観」と「客観」の働き。

末尾ルコ「映画で知性と感性を鍛えるレッスン」

サラ・ガドンは現在のところ、「この作品のサラ・ガドンが凄い!」とまでの映画には巡り会っていないし、本人もそこまでのパフォーマンスは見せていない。
けれどわたしはサラ・ガドンのファンなのである。
なぜか?
それはさて置き、

わたしは

「サラ・ガドンを、(今のところ)凄い女優ではない」

と理解した上で、ファンである。
この点にぜひご注目を。
別に自画自賛とか、そういうことではなく、少なくともここには

「主観的意志」と
「客観的判断」が

バランスよく働いていると、自分では思っています。
なぜわざわざこんなことに言及するかと言うと、
どんなものごとに対してもですが、「客観的判断」がまったく働いてない人が多いんです。
こういう人たちが多くなればなるほど、社会は「危険度」を増していくのですね。

はい。
「主観的意志」と「客観的判断」のバランス。

常に試みてくださいね。

●原稿依頼などは、気軽にサイドバーのアドレスへご連絡を!

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●「負傷者続出」の新日本プロレスの状況から、「プロレスとは何か」という本質論へ向かうわたしである。 [「言葉」による革命]

●「負傷者続出」の新日本プロレスの状況から、「プロレスとは何か」という本質論へ向かうわたしである。

末尾ルコ「プロレスの話題で知性と感性を鍛えるレッスン」

新日本プロレスで深刻な負傷者が続出している現状に対し、さすがに各方面から「変わるべき」という意見が出始めている。
とりわけ新日本の技の危険化は甚だしく、そしてファンは残酷なものですぐに見慣れてしまうから、早期に「試合の組み立て自体」を見直す必要があるでしょう。
でないと、「同じ危険な技」もすぐに飽きられて、「もっともっと」の極めて危険な段階に入るのは目に見えています。
しかしこれは高度な危険技連発の新日だけの話ではなく、曙の入院でも分かるように、プロレス界の隅々に蔓延る出鱈目な運営、レスラーの健康状態無視のカード編成など、あらゆることを見直すべきです。
と書きながら、(いや、本当にそうだろうか)という疑問もわたしの中にはある。
自分はプロレス界に、あたかも一般のスポーツのような、少なくとも見かけ上は健全な世界を望んでいるのか?
かつての自分は「オックス・ベーカーはパンチで二人殺した」といった武勇伝に恐怖し、しかし同時にワクワクしていたのではなかったか?
そもそも今のわたしにとって「プロレス」とは何なのか?
「プロレス」はわたしの生活の中でどのような位置を占めているのか?
こうしたことを考えるのは、わたし自身の個人史を超えて、ひょっとしたら「プロレスという存在そのもの」を思考するための興味深いアプローチになりはしないか。

などと考えつつ、Yahooでアップされているプロレス関連の記事のコメント欄をちらと見ると、それは「プロレス界でけが人続出」関連の記事だったのだけれど、

「プロレスってショーなのに本気出しちゃダメでしょ」とか、
「ショーなんだから、命懸けてやるようなことじゃない」とか、

相も変わらず知りもしないのに「ひとこと」侮辱的なコメントをする人間の多いこと。
こういう手合い、特にわたしの高校時代にいっぱいいました。
国民的娯楽の座からとうに降りてしまったプロレスだけれど、いまだにこのような目線と戦い続けているわけですね。

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〈「言葉」による革命〉・・・●末尾ルコ詩D「猫、稲妻」篇。2017年4月28日 [「言葉」による革命]

●末尾ルコ詩D「猫、稲妻」篇。

「猫、稲妻」

雷鳴と
雷蔵と
雷鳥の関係
雷蔵の
円月殺法は
ことさらな雷鳴を
轟かせることもなく
轟かせる必要もなく
静かに
決定的に
天を
斬る

・・・・・・

ぼくの素敵なネコのために
稲妻さえ
宝石に変えてみたいのさ!

(毎日、「末尾ルコ詩D」を書いてみましょう!わたしの創ったものを写すのではなく、ご自分で創ってみるのです)

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