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●アラン・ドロンの最盛期を鑑賞することで実感できる、「美しい男」と「イケメン」の天と地ほどの違い。 [「言葉」による革命]

●アラン・ドロンの最盛期を鑑賞することで実感できる、「美しい男」と「イケメン」の天と地ほどの違い。

末尾ルコ「映画の話題で知性と感性を鍛えるレッスン」

「俳優引退」を発表したアラン・ドロンだが、「即、引退」ではなく、映画や舞台の仕事がまだ残っているそうだ。
とりわけパトリス・ルコント監督の作品へ出演するのがドロンにとって「最後の映画」となると報道されている。
「最後の映画」がパトリス・ルコント作品だとは、映画ファンだけでなく、全人類にとって大きな贈り物である。
「全人類なんて、大袈裟だ」なんて言ってたらいけませんよ。

ところで、はい、

アラン・ドロンの最盛期を鑑賞することで実感できる、「美しい男」と「イケメン」の天と地ほどの違い。

というタイトル通り、最盛期のアラン・ドロンを観て、「うわあ~、イケメン」とか言うのであれば、感性、知性、ボキャブラリーなどが疑われる事態が発生します。
アラン・ドロン自身は決して「美しい人生」を歩んできたわけではないし、「美しい人格者」でもまったくない。
しかし「映画俳優としての美」は、映画史上トップ中のトップの一人です。

さあ、誰もが知っている(知っていた)『太陽がいっぱい』から鑑賞し直そうではないか!

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極限の愛、日常の愛、その言葉 2017年5月19日 [愛の景色]

あらゆる「愛の姿」を
今、心に描いてみよう

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〈「言葉」による革命〉・・・●末尾ルコ「格闘技で、あなたの人生にさらなる根性と感性を、のレッスン」~UFC200、血みどろのミーシャ・テイトは「記念大会」に相応しかったか?2017年5月19日 [「言葉」による革命]

●末尾ルコ「格闘技で、あなたの人生にさらなる根性と感性を、のレッスン」~UFC200、血みどろのミーシャ・テイトは「記念大会」に相応しかったか?

UFC200。
UFC開始当初のアングラな格闘技イベントの雰囲気はどこへやら、すっかりメジャーなスポーツ団体としての地位を確立し、勇躍記念大会「200」を決行したはよかったけれど、最大の誤算は前年に女子バンタム級のスーパースター ロンダ・ラウジーが衝撃的KO負けを喫してしまったことに他ならない。
デイナ・ホワイトも語った如く、ロンダ・ラウジーはUFCを、MMAを、「違う次元」へと引き上げた張本人であり、記念大会「200」への出場は当人も強く希望していたし、なにせKO負けする以前の、「ロンダ登場!」というだけで会場が爆発するあの雰囲気は、他のファイターでは到底出し得ないものだったから。

UFC200はその他にも、コナー・マグレガーとのすったもんだや、ジョン・ジョーンズ欠場など、ある時期からUFCが抱える問題点が噴出した大会でもあった。

有力選手の多くが判定決着となったのもいただけないし、メインのミーシャ・テイトVSアマンダ・ヌーネスはインパクトの強い試合内容にはなったけれど、「MMA界1の美女」とされるミーシャの顔面が血に染まり、明らかに戦意が喪失して姿は、「記念大会」としてはかなり陰惨なものだった。

●原稿依頼などは、気軽にサイドバーのアドレスへご連絡を!

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末尾ルコ詩D「好きなときに」篇。末尾ルコ「2017年4月4日の誕生日に30歳を迎えたサラ・ガドンに寄せる小さなエッセイ」。 [吉高由里子]

★「末尾ルコ 革命広場」/〈「言葉」による革命・「美」による革命〉[ハート]

★ 「言葉」で「あなた」はもっと強くなれる。
★ 「あなた」が強くなることで、「日本」はもっと強くなる。
高知から日本の隅々まで、末尾ルコ〈「言葉」による革命〉で、あなた自身があなたの住んでいる場所で「革命戦士の一人」に!

[スペード]現在実験的にブログをつついています。
? その一環としてブログテーマや順位は表示しておりません。

●末尾ルコ詩D「好きなときに」篇。

「好きなときに」

笑える
好きなように
好きな時に
笑える!

(毎日、「末尾ルコ詩D」を書いてみましょう!わたしの創ったものを写すのではなく、ご自分で創ってみるのです。)

●末尾ルコ「2017年4月4日の誕生日に30歳を迎えたサラ・ガドンに寄せる小さなエッセイ」。

サラ・ガドンは2017年4月4日に30歳になった。
1987年4月4日生まれのサラ・ガドン。
そう、サラ・ガドンは4月4日生まれ。
卑近な言い方をすれば、エイプリールフールの数日後。
日本の多くの地域では、ほぼ桜の季節。
サラ・ガドンには、桜の花びらがとてもよく似合う。
桜の色が、とてもよく似合う。
桜の色は、桜色。
桃ではないので桃色ではなく、ピンクと言うにはあまりに和のイメージが強く、そう言えばサラ・ガドンには、なぜか「和」の精神もよく似合う。
もちろんその桜は、花見でワイワイやっている裏側の、梶井基次郎が「桜の樹の下には」で書いた魔の世界も、と言うよりも、実は魔の世界が支配した桜の花びらなのである。


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●マギー・ミネンコからリンリン・ランランの『恋のインディアン人形』、そして『恋のパッコンNo.1』へと至る不可解な記憶。 [「言葉」による革命]

●マギー・ミネンコからリンリン・ランランの『恋のインディアン人形』、そして『恋のパッコンNo.1』へと至る不可解な記憶。

末尾ルコ「昭和歌謡史の話題で、知性と感性を鍛えるレッスン」

5月のある夜、わたしはふと、「マギー・ミネンコ」という名を思い出してしまったのだ。
マギー・ミネンコ。
どこか「西川峰子」という語感に似てなくもないこの外国人名でありながら日本人にも覚えやすい「マギー・ミネンコ」という名前。
顔とかは明確に覚えてないけれど、『燃えるブンブン』というとんでもない曲名とその曲調は記憶に新しく、「ばくれん(莫連)」的雰囲気で売っていたのも覚えている。
ネットで調べると、どうやらマギー・ミネンコはロシア系の血を引いているのは間違いないようだが。
もちろんわたしがマギー・ミネンコのファンだったという事実はない。
記憶とは不思議なものだ。
マギー・ミネンコについて考えたり調べたりしている内に脳裏をよぎったのがリンリン・ランランである。
「リンリン・ランラン」と言っても、パンダの名ではない。
リンリンというパンダもランランというパンダもいるそうだが、ここで語られる「リンリン・ランラン」とは1970年代のアイドルデュオである。
『恋のインディアン人形』という柔術的とさえ感じさせるタイトルの曲でテレビへ出ていた。
そこでわたしはYouTubeで『恋のインディアン人形』を視聴してしまったのだが、いささか頭痛を催してしまったことは付記しておかねばなるまい。
リンリン・ランランの『恋のインディアン人形』のどこに頭痛を催させる要素があったのか?
さほどプロポーションがいいとは言えない双子の外国人女性がネイティブ・アメリカン風の衣装でカクカクした動きの踊りをしながら歌っている。
曲の背後で鳴り続けるパーカッションのリズムが確かにネイティブ・アメリカンのリズムをイメージさせるし、リンリン・ランランの貼りついたような笑顔と踊りが「インディアン人形」に見えなくもない。
しかしわたしをさらに驚かせたのは、リンリン・ランランには、

『恋のパッコンNo.1』

というタイトルの持ち歌もあるではないか。

(『恋のパッコンNo.1』って、マズくないか、このタイトル・・・)などと不安を抱えながらついYouTubeで検索。
しかし『恋のパッコンNo.1』の動画を見つけることはできなかったのは幸福だったのだろうか。
きっと幸福だったのだろう。

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〈「言葉」による革命〉・・・●末尾ルコ詩D「猫、ロンドン」篇。2017年5月19日 [「言葉」による革命]

●末尾ルコ詩D「猫、ロンドン」篇。

「猫、ロンドン」

高知市薊野にある


その夜
ロンドンでは夜でないけれど
セリーナ・ウィリアムズも
アンゲリク・ケルバーも
白いテニスウエアを
着ている

まあ、そう。
DJ SHADOWなんか
聴いてるね、


高知市薊野にある


・・・・・・

ぼくの素敵なネコのために
世界を音楽としたい!

(毎日、「末尾ルコ詩D」を書いてみましょう!わたしの創ったものを写すのではなく、ご自分で創ってみるのです)

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