●「目(瞼の内側)」が痒いことに関するプチ考察。その1 [「言葉」による革命]
●「目(瞼の内側)」が痒いことに関するプチ考察。その1
末尾ルコ「身体意識で、知性と感性を鍛えるレッスン」
「目が痒い」・・・と言っても、眼球が痒いのではない。瞼の内側が痒いのだ。時にその周辺も痒くなる。わたしはこれが、たまにある。理由は分かっている。結膜炎でもなければ、花粉症でもない。つまり取り立てて何かの病名が付くような状態ではない。精神的な問題なのだ。「目(瞼の内側)の痒さ」と「精神」にどんな関係があるのかと疑問に感じる方もいるかもしれない。が、関係あるのだ。わたしの身体なので、そしてわたしは常日頃、自分の身体状況にとても敏感なので、よく分かっている。
末尾ルコ「身体意識で、知性と感性を鍛えるレッスン」
「目が痒い」・・・と言っても、眼球が痒いのではない。瞼の内側が痒いのだ。時にその周辺も痒くなる。わたしはこれが、たまにある。理由は分かっている。結膜炎でもなければ、花粉症でもない。つまり取り立てて何かの病名が付くような状態ではない。精神的な問題なのだ。「目(瞼の内側)の痒さ」と「精神」にどんな関係があるのかと疑問に感じる方もいるかもしれない。が、関係あるのだ。わたしの身体なので、そしてわたしは常日頃、自分の身体状況にとても敏感なので、よく分かっている。
〈「言葉」による革命〉・・・●末尾ルコ「映画ファンによる、〈映画ファンを増やす〉という戦い」。2017年8月13日 [「言葉」による革命]
●末尾ルコ「映画ファンによる、〈映画ファンを増やす〉という戦い」。
末尾ルコ「映画で知性と感性を鍛えるレッスン」。
映画ファンであれば、日本でできるだけ多くの映画を、できるだけ映画館で観たい、少なくともBD、DVD、あるいは有料チャンネルなどでできるだけ多様ない映画をいつでも鑑賞できる環境の中にいたい。
当然そう思うわけで、しかし現状は必ずしも好ましい状態ではないわけです。
地方では映画館で「観たい作品」を鑑賞できる可能性は年々減少しており、確かにDVD、BD,有料チャンネルなどで、以前であれば生涯鑑賞できなかったような作品を観ることができる状況は幸福だけれど、それでも現在の「洋画離れ、あるいはまともな実写日本映画離れ」がこのまま進めば、DVD化さえされない、有料映画チャンネルなどでも扱われない作品が増えてくるのは火を見るよりも明らかです。
で、映画会社の宣伝などに頼るだけでなく、
※映画ファンは日常的に、「一人でも映画に興味を持ってくれる活動をしなければならない」
というのがわたしが強く主張したいことです。
もちろん映画関係のブログを運営してらっしゃる方、映画関係の記事をアップしてらっしゃる方々は、既にそうした活動をどんどんやってくださっているわけで、素晴らしいと思います。
※映画ファンは日常的に、「一人でも映画に興味を持ってくれる活動をしなければならない」
これも〈「言葉」による革命〉の「言葉の戦士」の大切な戦いの一つです。
様々な方法が考えられますが、適宜お伝えしていきます。
一つポイントは、「誰にでも自分の好きな映画を薦めればいいというものではない」という点。
ここがなかなか難しい。(つづく)
●原稿依頼などは、気軽にサイドバーのアドレスへご連絡を!
末尾ルコ「映画で知性と感性を鍛えるレッスン」。
映画ファンであれば、日本でできるだけ多くの映画を、できるだけ映画館で観たい、少なくともBD、DVD、あるいは有料チャンネルなどでできるだけ多様ない映画をいつでも鑑賞できる環境の中にいたい。
当然そう思うわけで、しかし現状は必ずしも好ましい状態ではないわけです。
地方では映画館で「観たい作品」を鑑賞できる可能性は年々減少しており、確かにDVD、BD,有料チャンネルなどで、以前であれば生涯鑑賞できなかったような作品を観ることができる状況は幸福だけれど、それでも現在の「洋画離れ、あるいはまともな実写日本映画離れ」がこのまま進めば、DVD化さえされない、有料映画チャンネルなどでも扱われない作品が増えてくるのは火を見るよりも明らかです。
で、映画会社の宣伝などに頼るだけでなく、
※映画ファンは日常的に、「一人でも映画に興味を持ってくれる活動をしなければならない」
というのがわたしが強く主張したいことです。
もちろん映画関係のブログを運営してらっしゃる方、映画関係の記事をアップしてらっしゃる方々は、既にそうした活動をどんどんやってくださっているわけで、素晴らしいと思います。
※映画ファンは日常的に、「一人でも映画に興味を持ってくれる活動をしなければならない」
これも〈「言葉」による革命〉の「言葉の戦士」の大切な戦いの一つです。
様々な方法が考えられますが、適宜お伝えしていきます。
一つポイントは、「誰にでも自分の好きな映画を薦めればいいというものではない」という点。
ここがなかなか難しい。(つづく)
●原稿依頼などは、気軽にサイドバーのアドレスへご連絡を!
●2017年、錦織圭は本当に不調なのか?その1 [「言葉」による革命]
●2017年、錦織圭は本当に不調なのか?
末尾ルコ「テニス観戦の話題で、知性と感性を鍛えるレッスン」
2017年の錦織圭は不調である。
これは多くの日本人に共有されている認識だろうが、果たしてこれは正当な評価なのか。
しかし実は、プロのアスリートが不調か否かを判断する基準は実に多様なのである。
日本人にとって最も分かりやすいスポーツの一つは野球だろうが、例えば、前年に打率、ホームラン、打点の三冠王を獲得した打者に対し、翌年はそれぞれの数字がいくらかずつ下がったとして、特に日本の記者などは、「今年はもう一つですね」などと発言することがありがちだ。
この質問が、前年の「三冠王の状態が普通」として投げかけられているのは言うまでもないが、あまりに酷い愚問あることはすぐにお分かりだろう。
さて、「錦織圭が不調」というのは、何を基準に言われているのだろうか?
末尾ルコ「テニス観戦の話題で、知性と感性を鍛えるレッスン」
2017年の錦織圭は不調である。
これは多くの日本人に共有されている認識だろうが、果たしてこれは正当な評価なのか。
しかし実は、プロのアスリートが不調か否かを判断する基準は実に多様なのである。
日本人にとって最も分かりやすいスポーツの一つは野球だろうが、例えば、前年に打率、ホームラン、打点の三冠王を獲得した打者に対し、翌年はそれぞれの数字がいくらかずつ下がったとして、特に日本の記者などは、「今年はもう一つですね」などと発言することがありがちだ。
この質問が、前年の「三冠王の状態が普通」として投げかけられているのは言うまでもないが、あまりに酷い愚問あることはすぐにお分かりだろう。
さて、「錦織圭が不調」というのは、何を基準に言われているのだろうか?
●わたしは中学時代、「ブルース・リーよりアブドーラ・ザ・ブッチャーが強い」と断言した。 [「言葉」による革命]
●わたしは中学時代、「ブルース・リーよりアブドーラ・ザ・ブッチャーが強い」と断言した。
末尾ルコ「プロレスと格闘技の話題で、知性と感性を鍛えるレッスン」
わたしは市立の中学校、県立の高校へと進学したティーンエイジライフ(笑)だったが、学校がおもしろかったのは中学時代である。
高校は進学校で、小市民的な生徒がズラリで、学校は死ぬほどつまらなかった。
その分、好きな時間に学校から抜け出して街のアングラ界へ繰り出すというハイスクールライフを送ることになったのだが。
中学時代、わたしは学校でプロレスをやっていて、その詳細は今回は書かないが、プロレスと言っても中学生だから学生プロレスのようにリングを用意できるわけもなく、しかもそのようなウケ狙いの試合は望んでなかったから、結果的に現在のMMAのようなスタイルになっていた。
市立の中学はもちろん受験はなく、校区の生徒たちが自動的に進学してくるわけで、学力は当然バラバラ。
さらにわたしが中2、中3の時期には校内暴力の嵐が吹き荒れたのだが、ぶっちゃけた話、毎日学校へ行くのが楽しくてならなかった。
「常にトラブルが発生する」という状況であり、マンネリな日々などあり得なかったのだ。
もちろん現在のわたしは校内暴力を否定しているけれど、当時のわたしがそうした状況を「かなり楽しんでいた」のは事実なのだから仕方ない。
中学生を「子ども」と言い切るわけにはいかないかもしれないが、一般的に「子どもの心」には残酷な面も多く含まれており、「綺麗ごと」を聞かせるだけでは心に響くものではないのだ。
ところで当時わたしの中学校でプロレス専門誌を購入していたのは、わたしと当時のプロレス友人の二人だけで、『月刊プロレス』や『月刊ゴング』の新刊を買う度に学校へ持っていき、自慢げに披露するのがならわしのようになっていた。
わたしが持ってきたプロレス専門誌のページを一心不乱にめくるクラスメートたちの姿を(うんうん)と温かな眼差しで眺めるわたしだったのである。
もちろんプロレスに対して頓珍漢なことを言う輩には厳しい態度を見せた。
ある日、いかにも高知ネイティブで小柄でやや丸いクラスメートが、
「ブッチャーよりブルース・リーの方が強いわや」(←ナチュラルな土佐弁)
などと言っていたので、
「阿呆!ブルース・リーは映画でやりゆうが。ブッチャーはホンマにやりゆうが」
と当然のことを語って諭したものである。
もっとも、長い年月の後、(あの時の自分の諭しは正しかったのかな)と考えることもなくもないが(笑)。
ブルース・リーが単なる「映画のアクションスター」ではなく、本物の武道家だったことも後からよく知ったし、ブッチャーは柔道や空手の経験はあっても、どちらも一級には程遠かったことも後から知った。
もちろんブッチャーの巨体と、ブルース・リーの上背の無さ、細さを考えれば、中学時代の意見はまず間違いなかったとは思うのだが。
末尾ルコ「プロレスと格闘技の話題で、知性と感性を鍛えるレッスン」
わたしは市立の中学校、県立の高校へと進学したティーンエイジライフ(笑)だったが、学校がおもしろかったのは中学時代である。
高校は進学校で、小市民的な生徒がズラリで、学校は死ぬほどつまらなかった。
その分、好きな時間に学校から抜け出して街のアングラ界へ繰り出すというハイスクールライフを送ることになったのだが。
中学時代、わたしは学校でプロレスをやっていて、その詳細は今回は書かないが、プロレスと言っても中学生だから学生プロレスのようにリングを用意できるわけもなく、しかもそのようなウケ狙いの試合は望んでなかったから、結果的に現在のMMAのようなスタイルになっていた。
市立の中学はもちろん受験はなく、校区の生徒たちが自動的に進学してくるわけで、学力は当然バラバラ。
さらにわたしが中2、中3の時期には校内暴力の嵐が吹き荒れたのだが、ぶっちゃけた話、毎日学校へ行くのが楽しくてならなかった。
「常にトラブルが発生する」という状況であり、マンネリな日々などあり得なかったのだ。
もちろん現在のわたしは校内暴力を否定しているけれど、当時のわたしがそうした状況を「かなり楽しんでいた」のは事実なのだから仕方ない。
中学生を「子ども」と言い切るわけにはいかないかもしれないが、一般的に「子どもの心」には残酷な面も多く含まれており、「綺麗ごと」を聞かせるだけでは心に響くものではないのだ。
ところで当時わたしの中学校でプロレス専門誌を購入していたのは、わたしと当時のプロレス友人の二人だけで、『月刊プロレス』や『月刊ゴング』の新刊を買う度に学校へ持っていき、自慢げに披露するのがならわしのようになっていた。
わたしが持ってきたプロレス専門誌のページを一心不乱にめくるクラスメートたちの姿を(うんうん)と温かな眼差しで眺めるわたしだったのである。
もちろんプロレスに対して頓珍漢なことを言う輩には厳しい態度を見せた。
ある日、いかにも高知ネイティブで小柄でやや丸いクラスメートが、
「ブッチャーよりブルース・リーの方が強いわや」(←ナチュラルな土佐弁)
などと言っていたので、
「阿呆!ブルース・リーは映画でやりゆうが。ブッチャーはホンマにやりゆうが」
と当然のことを語って諭したものである。
もっとも、長い年月の後、(あの時の自分の諭しは正しかったのかな)と考えることもなくもないが(笑)。
ブルース・リーが単なる「映画のアクションスター」ではなく、本物の武道家だったことも後からよく知ったし、ブッチャーは柔道や空手の経験はあっても、どちらも一級には程遠かったことも後から知った。
もちろんブッチャーの巨体と、ブルース・リーの上背の無さ、細さを考えれば、中学時代の意見はまず間違いなかったとは思うのだが。
〈「言葉」による革命〉・・・●末尾ルコ詩D「猫、座禅」篇。2017年8月13日 [「言葉」による革命]
●末尾ルコ詩D「猫、座禅」篇。
「猫、座禅」
領略せよ!
領略せよ!
しかし情けなくも
Mの頬にはチックが走った
それは10月に入ったばかりの朝だった
となれば、
座禅の一つも
組まねばなるまい
・・・・・・
ぼくの素敵なネコを想い、
ぼくはいつも
精神集中!
(毎日、「末尾ルコ詩D」を書いてみましょう!わたしの創ったものを写すのではなく、ご自分で創ってみるのです)
「猫、座禅」
領略せよ!
領略せよ!
しかし情けなくも
Mの頬にはチックが走った
それは10月に入ったばかりの朝だった
となれば、
座禅の一つも
組まねばなるまい
・・・・・・
ぼくの素敵なネコを想い、
ぼくはいつも
精神集中!
(毎日、「末尾ルコ詩D」を書いてみましょう!わたしの創ったものを写すのではなく、ご自分で創ってみるのです)
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