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●映画『大脱走』と『ダンケルク』に共通するテーマとは? [「言葉」による革命]

●映画『大脱走』と『ダンケルク』に共通するテーマとは?

末尾ルコ「映画の話題で、知性と感性を鍛えるレッスン」

先の記事で、

『大脱走』は「痛快戦争映画」の属し、『ダンケルク』は「シリアス&スペクタクル戦争映画」に属している。

と書いたが、その違いはもちろん演出や脚本にも大きく存在するのだけれど、出演俳優の演技プランもまったく異なっている。
「痛快戦争映画」は登場人物のキャラクターがエンタメ小説や漫画のようにしっかりと書き分けられており、多く主人公はヒロイックでカリスマ的で、しかもユーモラスである。
複数の兵士などが主要な登場人物として構成されておれば、「ドジな人物」「陰気な人物」など観客に分かりやすいように書き分けられていて、今そうした映画を鑑賞すると時に陳腐に感じる要因の一つとなっている。

それほど作風の異なるハリウッド戦争映画の昨今だが、たまたま最近鑑賞した『大脱走』『ダンケルク』両作品に共通する、いわば「テーマ」もある。

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極限の愛、日常の愛、その言葉 2017年9月23日 [愛の景色]

あなたを知ることで、
わたしは本当に
「愛の献身」を
知ることができ始めたようだ

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〈「言葉」による革命〉・・・●末尾ルコ「吉永小百合『映画女優』の「おしっこしてやる」という「放尿」台詞を聞きながら、今後の吉永小百合について考えた」その2。2017年9月23日 [「言葉」による革命]

●末尾ルコ「吉永小百合『映画女優』の「おしっこしてやる」という「放尿」台詞を聞きながら、今後の吉永小百合について考えた」その2。

末尾ルコ「映画俳優演技論」

市川崑監督、吉永小百合主演の『映画女優』には、渡辺徹と沢口靖子が出演している。
今日日び映画ではお目にかかることのない二人だ。
東宝は、と言うか、日本映画界はかつて沢口靖子を飛び切りの「映画スター」として売り出そうとしていた。
同じ市川崑監督の『竹取物語』で主演なんぞしていた。
市川崑『竹取物語』・・・『未知との遭遇』ばりのUFOが飛来する珍妙な作品で、まあもうちょっと撮りようがなかったかと唖然としたものだ。
しかしそもそも「沢口靖子が映画スター」というのがご無体な話。
そう言えば、松竹は羽田美智子を無理矢理「映画スター」にしようとしていた。
人材不足の時代でもあった。
戦後日本映画界、映画がとてつもない観客を集めていた時代から、映画産業の壊滅的衰退時を超えて現在まで、吉永小百合は「主演映画スター」として君臨し続けている。
わたしはもちろん吉永小百合の若き日を歴史としてしか知らず、映画ファンとなった子ども時代にも吉永小百合主演作品はひっかかって来ず、要するにある程度大人になってから、『キューポラのある街』を含めてかつての吉永小百合を「勉強」し、それでもまだ(吉永小百合の映画ってかったるいよな)と感じていた。
結局その凄さに気付いたのは吉永小百合が60歳を超えてからということになるのだろうか。
そして今、吉永小百合は70歳を超えている。
どこまで行くのか?
どこまでも行ってほしいが、一体本人はどう思っているのだろうか?


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●ハリウッド戦争映画の大雑把な分類~『ダンケルク』と『大脱走』。 [「言葉」による革命]

●ハリウッド戦争映画の大雑把な分類~『ダンケルク』と『大脱走』。

末尾ルコ「映画の話題で、知性と感性を鍛えるレッスン」

映画『大脱走』も『ダンケルク』も同じように第2次世界大戦の実話を基にストーリーが作られているけれど、作風はまったく異なっている。
映画ファンならご存じだろうけれど、特にハリウッドでは、第2次大戦の記憶も新しい時期には「痛快戦争映画」がドル箱作品として多く作られていて、近年は逆にシリアスな内容の戦争映画が主流だ。
ただ、「シリアス」と言っても、「リアルな戦闘シーン」を巨額の製作費、最先端の技術を持って作るから、結局は「スペクタクル」が売り物となっているわけだが、それはハリウッド映画の宿命のようなもので、必ずしも悪いことではない。
で、もちろん『大脱走』は「痛快戦争映画」の属し、『ダンケルク』は「シリアス&スペクタクル戦争映画」に属している。


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●いずれ「プロレス」さえやってしまう「王道アイドル」天地真理に日本の殿方たちは発情していたのか? [「言葉」による革命]

●いずれ「プロレス」さえやってしまう「王道アイドル」天地真理に日本の殿方たちは発情していたのか?

末尾ルコ「昭和文化史の話題で、知性と感性を鍛えるレッスン」

人様の顔や体形をどうこう言うべきではなく、もちろん誰かの姿を見て、つい心で思ってしまうことはあるけれど、それを言葉として発してしまうのは、とりわけ当人の前で発してしまうのは、人間社会の中では反則行為である。
まあ、子どもの世界では日常茶飯であるが、それについてはまたの機会に述べよう。
少なくとも、大人の世界で人様の顔や体形について大っぴらにどうこう言うのは反則である。
この「大っぴらに」という言葉も一つのポイントだが、それについても別の機会に述べよう。
しかしここでわたしが言いたいのは、

「俳優や歌手など、容姿も含めて売り物にしている人たちの外見について話題にするのは当然である」

ということだ。
別にわざわざそんなことを今更主張する必要などなさそうなものだが、今日び「一般人」と「著名な俳優、歌手など」の区別がつかない人たちも多くなっているので、敢えて言及してみた次第だ。

そこで天地真理である。

わたしが子ども時代、天地真理は太陽のようなアイドル歌手・・・のように感じていた。
「王道まっしぐらのアイドル」・・・そんなイメージで、他を圧していたと思い込んでいたし、現在その実績を調べても、確かに70年代前半の天地真理はそれだけのビッグアイドルに相応しい活躍をしていたようだ。
容姿的にも「王道」であり、アイドルとして何ら非の打ち所がない・・・くらいに漠然とイメージを持っていて、もちろんアイドルとしての人気が無くなってからの天地真理の人生についてつぶさに知っているわけではないけれど、バラエティ番組でプロレスをやっていたなあとか、決してご本人の望んでいた人生ではないだろうことも漠然と知っていたが、問題は「王道アイドル全盛期」の天地真理である。
今見ると、いろいろと「ヘン」なのだ。
いや、ヒット曲の楽曲クオリティは今聴いてもかなりいいと思う。
ミニスカートで歌っている姿を見れば、プロポーションもなかなかいい。
しかし顔・・・目が中心に集まり過ぎている感があるし、頬も前に出過ぎている。
もちろん女優ではなく(女優的仕事もやっていたが)、「アイドル歌手」なのであるから、「美貌」よりも「親しみやすさ」に重点が置かれているのは分かるし、いくらか隙のあるルックスの方が好まれる傾向もあるだろう。
では天地真理のヘアスタイルはどうなのか?
お釜を被ったような時もあれば、昭和のある程度年輪を経た婦人の方々がやっていたようなパーマ頭の時もある。
そして声・・・こちらも何やらスカスカと抜けるような、そして昭和のある程度年輪を経た女教諭のような声のようにも聞こえる。
そして何ら感情を持たないロボットのような歌い方・・・。

いや、だからどうというわけではないけれど、そして頑是ないキッズだったわたしにはよく分からないところなのだけれど、アイドルとしての天地真理は、例えば中高生の少年血を発情させていたのだろうか。
エロティシズムの観点からも、興味深い考察ではある。

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〈「言葉」による革命〉・・・●末尾ルコ詩D「猫、拳骨」篇。2017年9月23日 [「言葉」による革命]

●末尾ルコ詩D「猫、拳骨」篇。

「猫、拳骨」

そそそそそれは動物さん
狸に狐に
お稲荷さん
ニカラグアして
怒りに拳を
あいつの顔面
脇腹ごずんと
ソリッドな拳骨を
犀の瓦に
麒麟の炎
俺の炎は
消えないぜ

・・・・・・

ぼくの素敵なネコを守るため
ぼくの拳骨は
いつでもスタンバイだ!

(毎日、「末尾ルコ詩D」を書いてみましょう!わたしの創ったものを写すのではなく、ご自分で創ってみるのです)

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