〈「言葉」による革命〉・・・●末尾ルコ「吉高由里子のポテンシャルを発揮させる日本となれ!」その2。2017年12月17日 [「言葉」による革命]
●末尾ルコ「吉高由里子のポテンシャルを発揮させる日本となれ!」その2。
末尾ルコ「映画で知性と感性を鍛えるレッスン」
吉高由里子が映画『蛇にピアス』へ出演したのが2008年だ。
しかし(記録上)それ以前に吉高由里子はこれだけの映画に出演している。
『紀子の食卓』
『渋谷区円山町』
『歌謡曲だよ、人生は 第6話 ざんげの値打ちもない』
『転々』
『夕映え少女』(「イタリアの歌」)
『僕の彼女はサイボーグ』
『きみの友だち』
この中には「1エピソードだけ」とか「ほぼ一瞬の出演シーン」とかの作品もあるけれど、いずれも「マスメディアに流通する以前」の吉高由里子のクオリティが垣間見える。
あなたはどの作品を観ていますか?
どの作品を観ますか?
※吉高由里子に対しては、既に「ほとんど興味を失っている」状態だが、それは吉高由里子だけのせいではなく、日本映画界、そして日本社会に帰する問題である。
●原稿依頼などは、気軽にサイドバーのアドレスへご連絡を!
末尾ルコ「映画で知性と感性を鍛えるレッスン」
吉高由里子が映画『蛇にピアス』へ出演したのが2008年だ。
しかし(記録上)それ以前に吉高由里子はこれだけの映画に出演している。
『紀子の食卓』
『渋谷区円山町』
『歌謡曲だよ、人生は 第6話 ざんげの値打ちもない』
『転々』
『夕映え少女』(「イタリアの歌」)
『僕の彼女はサイボーグ』
『きみの友だち』
この中には「1エピソードだけ」とか「ほぼ一瞬の出演シーン」とかの作品もあるけれど、いずれも「マスメディアに流通する以前」の吉高由里子のクオリティが垣間見える。
あなたはどの作品を観ていますか?
どの作品を観ますか?
※吉高由里子に対しては、既に「ほとんど興味を失っている」状態だが、それは吉高由里子だけのせいではなく、日本映画界、そして日本社会に帰する問題である。
●原稿依頼などは、気軽にサイドバーのアドレスへご連絡を!
タグ:アート
●末尾ルコ 魂のフレーズ「PJハーヴェイを」
・末尾ルコ 魂のフレーズ「PJハーヴェイを」
戦え!
PJハーヴェイの「TheWind」がめためたカッコいいのである。
それはロックであるか?
戦え!
PJハーヴェイの「TheWind」がめためたカッコいいのである。
それはロックであるか?
●映画『SUSHI GAIRL』の「女体盛り」映像から『ゾンビーバー』へも出演しているコートニー・パーム、そして昭和のエロ本に満ちた町の本屋のメモリーへと。 [「言葉」による革命]
●映画『SUSHI GAIRL』の「女体盛り」映像から『ゾンビーバー』へも出演しているコートニー・パーム、そして昭和のエロ本に満ちた町の本屋のメモリーへと。
末尾ルコ「エロティシズムの話題で、知性と感性を鍛えるレッスン」
マーク・ハミルがとてもルーク・スカイウォーカーとは似ても似つかぬ姿で登場する映画『SUSHI GAIRL』であるけれど、別にこの作品はマーク・ハミル目的で鑑賞したのではなくて、ましてや「女体盛り」目当てでもなく、このテのインチキ臭い映画の中にお宝的なおもしろさの作品がちょいちょい見つかるからである。
しかし『SUSHI GAIRL』はさほどおもしろくはなかったのだけれど、「コートニー・パーム」という女優の裸体の上に寿司が置かれていたのは確かであり、このコートニー・パーム、ここ数年の「インチキ臭い映画」の中の傑作のひとつ、『ゾンビーバー』へも出演しているではないか、というお話は以前書いた気もするけれど、まあそれはいい。
この「女体盛り」だが、わたしの個人的感想としては、(裸体の女性の上に寿司を載せて何が楽しいのだろう)くらいのものであり、「女体盛り」に関しては何ら関心はないし、まして「男体盛り」にはもっと関心はない。
しかしふと気づいたが、わたしは10代の頃からまったく関心がないに関わらず、「女体盛り」という異な方法論を知っていたのであり、(一体なぜだ??)と考えてみるに、犯人は「町の本屋」である。
町の本屋は日本中どこの地域でもどんどんその数を減らしているのだろうが、その傾向が明らかになってきたのはやはり80年代からだろうか。
まだネットが普及している段階ではなかったが、全国チェーンの大手書店やレンタルビデオ店に付属した書店の影響などで、高知でも当時次々と小さな本屋が姿を消し始め、地元のテレビでも廃業寸前の書店オーナーがインタヴューされていたことを覚えている。
それさて置き、高知市の中心街から離れた場所にもかつては「町の本屋」がかなりあって、そうした書店の多くには、「女体盛り」などの写真を含んだ不届きな雑誌が、多くは店の奥の方に、時には店頭にこれ見よがしに並べられていた。
もちろん聖心にして純情可憐な10代のわたしが「女体盛り」だの「団地妻の悶え」だのに興味を持つはずもなく、わたしがやむなくそうした反社会的な書店に足を運んでいたのは、『月刊プロレス』『月刊ゴング』を購入するためである。
そしてもちろんわたしはそうした非道極まりない雑誌を手に取るのも嫌だったけれど、しかし「悪を打倒するには悪を知らねば」というコンセプトの下、心底辛い思いをしながらも嫌々ページを開いてみたことも無きにしも非ずであって、そんな鬼畜的ページの中にきっと「女体盛り」があったのだろう。
しかし「和製エロティシズム」を考える上で重要なこの話題、きっと今後も続くはずである。
末尾ルコ「エロティシズムの話題で、知性と感性を鍛えるレッスン」
マーク・ハミルがとてもルーク・スカイウォーカーとは似ても似つかぬ姿で登場する映画『SUSHI GAIRL』であるけれど、別にこの作品はマーク・ハミル目的で鑑賞したのではなくて、ましてや「女体盛り」目当てでもなく、このテのインチキ臭い映画の中にお宝的なおもしろさの作品がちょいちょい見つかるからである。
しかし『SUSHI GAIRL』はさほどおもしろくはなかったのだけれど、「コートニー・パーム」という女優の裸体の上に寿司が置かれていたのは確かであり、このコートニー・パーム、ここ数年の「インチキ臭い映画」の中の傑作のひとつ、『ゾンビーバー』へも出演しているではないか、というお話は以前書いた気もするけれど、まあそれはいい。
この「女体盛り」だが、わたしの個人的感想としては、(裸体の女性の上に寿司を載せて何が楽しいのだろう)くらいのものであり、「女体盛り」に関しては何ら関心はないし、まして「男体盛り」にはもっと関心はない。
しかしふと気づいたが、わたしは10代の頃からまったく関心がないに関わらず、「女体盛り」という異な方法論を知っていたのであり、(一体なぜだ??)と考えてみるに、犯人は「町の本屋」である。
町の本屋は日本中どこの地域でもどんどんその数を減らしているのだろうが、その傾向が明らかになってきたのはやはり80年代からだろうか。
まだネットが普及している段階ではなかったが、全国チェーンの大手書店やレンタルビデオ店に付属した書店の影響などで、高知でも当時次々と小さな本屋が姿を消し始め、地元のテレビでも廃業寸前の書店オーナーがインタヴューされていたことを覚えている。
それさて置き、高知市の中心街から離れた場所にもかつては「町の本屋」がかなりあって、そうした書店の多くには、「女体盛り」などの写真を含んだ不届きな雑誌が、多くは店の奥の方に、時には店頭にこれ見よがしに並べられていた。
もちろん聖心にして純情可憐な10代のわたしが「女体盛り」だの「団地妻の悶え」だのに興味を持つはずもなく、わたしがやむなくそうした反社会的な書店に足を運んでいたのは、『月刊プロレス』『月刊ゴング』を購入するためである。
そしてもちろんわたしはそうした非道極まりない雑誌を手に取るのも嫌だったけれど、しかし「悪を打倒するには悪を知らねば」というコンセプトの下、心底辛い思いをしながらも嫌々ページを開いてみたことも無きにしも非ずであって、そんな鬼畜的ページの中にきっと「女体盛り」があったのだろう。
しかし「和製エロティシズム」を考える上で重要なこの話題、きっと今後も続くはずである。
〈「言葉」による革命〉・・・●末尾ルコ詩D「猫、不変」篇。2017年12月17日 [「言葉」による革命]
●末尾ルコ詩D「猫、不変」篇。
「猫、不変」
そして少し南から
いつもの西へ
実はその間
大切なことは
何も変わっていないのかもしれない
・・・・・・
ぼくと
ぼくの素敵なネコは
不変だ、間違いなく!
(毎日、「末尾ルコ詩D」を書いてみましょう!わたしの創ったものを写すのではなく、ご自分で創ってみるのです)
「猫、不変」
そして少し南から
いつもの西へ
実はその間
大切なことは
何も変わっていないのかもしれない
・・・・・・
ぼくと
ぼくの素敵なネコは
不変だ、間違いなく!
(毎日、「末尾ルコ詩D」を書いてみましょう!わたしの創ったものを写すのではなく、ご自分で創ってみるのです)