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●末尾ルコ偏愛、お薦め「恋愛映画」トップ5。~美しき、ストーカー女の話、『アデルの恋の物語』。 [「言葉」による革命]

●末尾ルコ偏愛、お薦め「恋愛映画」トップ5。~美しき、ストーカー女の話、『アデルの恋の物語』。

末尾ルコ「映画の話題で、知性と感性を鍛えるレッスン」

『アデルの恋の物語』。
「アデル」とは、世紀の文豪ヴィクトル・ユゴーの娘の一人だ。
「美しき、ストーカー女の語」という意味は、もちろんストーカー行為が美しいのではなく、異常な女のストーカー行為を克明に描いてさえ、『アデルの恋の物語』はあまりに美しい映画であるということ。
アデル・ユゴーはピンソン中尉に捨てられ、しかし妄念の虜となり、カナダまで追いかけて行き、異常繰り返し、遂には精神の崩壊へと至る。
イザベル・アジャニーの衝撃。
そしてわたしはアデルによってあたかも宣言のように語られる次の言葉にどれだけ心を燃やしたことか。

「若い娘が旧世界から新世界へ行く冒険。わたしはそれをする」

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極限の愛、日常の愛、その言葉 2017年2月23日 [愛の景色]

ナイフな
あなたは
わたしに
刺さる

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〈「言葉」による革命〉・・・●末尾ルコ「『西郷どん』主演でまたしても体重増減の話題が中心となる鈴木亮平に危惧を抱く」。2018年2月23日

●末尾ルコ「『西郷どん』主演でまたしても体重増減の話題が中心となる鈴木亮平に危惧を抱く」。

末尾ルコ「映画で知性と感性を鍛えるレッスン」

ロベール・ブレッソンの『スリ』を最近観て退屈を感じたというお話をしましたが、映画監督の多くは俳優たちの過剰な演技を嫌っており、そこが映画俳優の難しいところでもあり、おもしろいところでもあるのですね。
映画監督によっては、そして作品によっては、俳優に一切演技をさせない場合もあり、例えばわたしが最も好きな映画の一つであるピエル・パオロ・パゾリーニ監督の『奇跡の丘』はそんな演出方法で大成功しています。
しかし例えばアカデミー賞で演技賞を獲りたいのであれば、「かなり演技演技した演技」が必要になります。

ところでわたしは鈴木亮平という俳優は名前が売れる前から好きなのだけれど、最近では「体重増減」の話題ばかりでいささか辟易しています。
まず「作品」そして「その作品に相応しい演技プラン」あっての「肉体改造」なのに、鈴木亮平の場合はもっぱら「体重増減」の話題ばかりで、演技そのものには滅多に話が至らない。
ちょっと本末転倒状態ですね。

●原稿依頼などは、気軽にサイドバーのアドレスへご連絡を!

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山田姉妹へのメッセージ「スヴェトラーナ・ザハロワ」 [「言葉」による革命]

末尾ルコ「音楽の話題で、知性と感性を鍛えるレッスン」

二人がお風邪など召されてないのは何よりの幸せでございます。わたしは年末年始にやや体調を崩しましたが、今はパワー全開寸前(笑)。お二人の美声が日々のネクトルとなっております。観劇のお話を少し続ければ、ボリショイ・バレエのスター スヴェトラーナ・ザハロワのダンスを観る度に、胸を掻きむしられるような特別な感動を味わってしまいます。そしてそれと同様の感動をお二人の歌唱から味わうのです。日本人の表現者からそれほどまでの感動をいただいたのは、お二人が初めてなのです。RUKO
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山田姉妹へのメッセージ「チェロ」 [「言葉」による革命]

末尾ルコ「音楽の話題で、知性と感性を鍛えるレッスン」

チェロの形態自体美しいですし、演奏者とのフォルムもまた極めて美的ですよね。
これだけ弦楽器が入ると、どれだけお二人の美声と華やかにして麗しいハーモニーを奏でられるか、期待は止まりません。RUKO


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●学校教師はなぜ「恐縮」や「へりくだり」ができないのか? [「言葉」による革命]

●学校教師はなぜ「恐縮」や「へりくだり」ができないのか?

末尾ルコ「教育論で、知性と感性を鍛えるレッスン」

1月のある午後、「歌う会」的な集まりに参加していた母が帰って来たようなので、ガレージまで見に行くと、タクシーではなく参加メンバーに一人が車で送ってくれたようだ。
それはとても感謝なのだけれど、やや遠めに母に声をかけていたわたしに対してその母と同年配らしき婦人だが、わたしに向かって、
「こっちへ来なさいや」と。

(来なさい?)
これは命令形の日本語ではないか。
確かにその婦人はわたしよりもずっと人生の先輩ではあるけれど、わたしも「けっこうな大人」(笑)である。
面識のない婦人に「命令される」覚えはないのだが。

母は元小学校教員で、現在もリタイアした教員のグループに所属している。
母の現役時代は日教組が極めて強かった時期であり、父も母もほとんど自動的に組合員だった。
しかし特に母は、「日教組の思想や運動」についてまったく無頓着で、要するに、「ほとんどの教員が日教組入り」する時代だったから入っていただけである。
もちろん組合員の中には母にとって「よき友人」も少なからずいるようだけれど、だからと言って母が日教組の思想や活動に意識的だったことは一度もないし、今後もないだろう。

といった話もまたじっくり掘り下げていきたいが、ここで語りたいのは、

「教員」あるいは「元教員」たちの「態度」である。

なぜ「教員」あるいは「元教員」の人たちの多くは、

「へりくだった態度」が取れないのか?

「なぜ」と取り敢えず書いているけれど、その答えは明確ではある。
つまり、「教師だから、へりくだった態度が取れない」というわけだ。
教員になった時点で若くして「先生、先生」と、生徒だけでなく、自分よりずっと年上の保護者にまで言われる。
何かを売る必要も、販路を拡大する必要もない・・・しかしだからと言って、「へりくだれない」わけはないし、人間同士のコミュニケーション上、へりくだって当然の状況も多くあるはずなのだけれど、わたしの知っている範囲では、「へりくだる教師」はなかなか目にしないのである。
例えば自宅の固定電話に母の元同僚などから電話がかかることがあるが、普通突然の電話であれば、かける方は、「お休みのお時間に、突然のお電話失礼いたします」などと恐縮する言葉を入れるのが普通ではないか。
面識ある母が電話に出たのであればまだしも、わたしは母の同僚と普通は面識がないのである。
いつも(ちったあ、恐縮しろ!)と、特に忙しい時に電話に出た場合は不快なのである。

「教師は学問さえ教えていればいい」という意見もあるが、わたしはそうは思わない。
などということも、テーマとして今後も深めていこう。

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〈「言葉」による革命〉・・・●末尾ルコ詩D「一体」篇。2018年2月23日 [「言葉」による革命]

●末尾ルコ詩D「一体」篇。

「一体」

海へ潜り、
海と一体になる
となれば
ぼくは

(毎日、「末尾ルコ詩D」を書いてみましょう!わたしの創ったものを写すのではなく、ご自分で創ってみるのです。)


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