●〈「言葉」による革命〉・・・・「戦いの最前線」は、「家庭」・「カフェ」、そして「あなた」~あらゆる活動の中心に「言葉の修練」を!2018年6月7日 [「言葉」による革命]
※2018年7月3日配信予定 末尾ルコ メルマガ(有料)より抜粋。
人間は、「言葉」によって成長します。
社会は、「言葉」によって成長した人間によって成長します。
日本社会の停滞感、閉塞感はどこから来ているか?
そのほとんどは、「言葉の軽薄化・貧困化・愚劣化」などから来ています。
「言葉の力」、それは社会の、そして人間の、最も大きな単位から極小の部分にまで達して影響を及ぼします。
(続きは、有料メルマガでお願いします)
人間は、「言葉」によって成長します。
社会は、「言葉」によって成長した人間によって成長します。
日本社会の停滞感、閉塞感はどこから来ているか?
そのほとんどは、「言葉の軽薄化・貧困化・愚劣化」などから来ています。
「言葉の力」、それは社会の、そして人間の、最も大きな単位から極小の部分にまで達して影響を及ぼします。
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●末尾ルコ「言葉の深く魅力的な使い方」~「美しい」その1. [「言葉」による革命]
●末尾ルコ「言葉の深く魅力的な使い方」~「美しい」その1.
「美しい」という言葉を軽々に使う人はその審美眼が疑われるわけで、そんな人、わたしの周囲にも少なからずいました。
「いました」と過去形にするのは、審美眼が疑われるような人は日常の言動も見当はずれな場合が多く、わたしはそういう人たちに対してはすぐに距離を置くことにしているので、だいたいすぐに「過去」になってしまうのです。
まあ相手にとってはわたしが「過去」になっているのかもしれませんが。
「美しい」という言葉について、もちろん他の言葉もですが、どんどん深めていきます。
「美しい」という言葉を軽々に使う人はその審美眼が疑われるわけで、そんな人、わたしの周囲にも少なからずいました。
「いました」と過去形にするのは、審美眼が疑われるような人は日常の言動も見当はずれな場合が多く、わたしはそういう人たちに対してはすぐに距離を置くことにしているので、だいたいすぐに「過去」になってしまうのです。
まあ相手にとってはわたしが「過去」になっているのかもしれませんが。
「美しい」という言葉について、もちろん他の言葉もですが、どんどん深めていきます。
●『釣りバカ日誌5』のギャグ&アクションシーンを語りつつ、「悪しき教養主義」についても語るわたしです(←山田姉妹「みずいろの手紙」風に)。 [「言葉」による革命]
●『釣りバカ日誌5』のギャグ&アクションシーンを語りつつ、「悪しき教養主義」についても語るわたしです(←山田姉妹「みずいろの手紙」風に)。
末尾ルコ「映画とプチ日本人文化論の話題で、知性と感性を鍛えるレッスン」
昨日「サバの栄養素」として取り上げた「抗酸化作用のあるセレンだが、他のかなり多くの栄養素と過剰摂取は中毒症状を惹き起こすなど「有毒性」があることも知っておきたい。
まあなんにせよ、「過剰摂取」は弊害をもたらすことが多いのですな。
バランスが大切。
『釣りバカ日誌5』は、「浜ちゃん=西田敏行」の息子(赤ちゃん)の「鯉太郎」が会社内をうろつき回るシーンが一つの目玉になっている。
「赤ん坊にいろいろやらせる」「しかもふりちん(局部丸出し)である」などについての倫理的課題はここではさて置いて、映画の中盤に鯉太郎が会社ビル内をうろつき、西田敏行をはじめ、他の社員も巻き込んでてんやわんや(←素敵な死語?使いましょう)の大騒動となるのだが、この時間、「分かっていても心地よく、しかもその中に予想不可の展開も含まれている」ので、(あらあ、始まったよ~)などと感じながらも素直に笑える。
その過程で西田敏行の髪の毛が爆発したり、ズボン(西田敏行が履いていると、「パンツ」でなくてズボン)が脱げて派手なトランクス姿になったりと、ほぼお約束のギャグが展開されるのだけれど、それらもやはり心地いいし、例えばこうしたシーンを映画館で観れば、子どもからご高齢者まで分け隔てなくケラケラ笑って愉しめるのは間違いないところだ。
こうした主に「アクション」を用いたギャグシーンもサイレント時代から続く伝統的映画表現であって、「言葉」を用いた高度なギャグもおもしろいけれど、映画の絶対的根本は「映像」なのだから、ぜひこの伝統は守り発展させていってほしい。
ところで私が映画を鑑賞する際の基準は常に、「(自分にとって)おもしろいか否か」、そして「クオリティが高いか否か」なのですね。
前に書いたように、10代の時期は「アート作品最上位」というのはありました。
そう、10代のわたしはちょっとしたスノッブ的意識があったのですね。
その後様々な経験(笑)を経て、現在は「どんなジャンルでもクオリティさえ高ければ大好き!」というスタンスです。
もちろんそこには「好み」の問題もあるのですけれど。
でも世の中にはどうしてもいるのですね、アクション映画やコメディ映画を下に見る人たちって。
わたしは「教養主義」のすべてが悪いとは思わないけれど、どんなものにも「良き~」と「悪しき~」というレベルがあって、アート映画や文芸映画を無条件で上位に置くのは、「(表面的)真面目が最高」という「悪しき教養主義」の影響が取れていないのだと思います。
末尾ルコ「映画とプチ日本人文化論の話題で、知性と感性を鍛えるレッスン」
昨日「サバの栄養素」として取り上げた「抗酸化作用のあるセレンだが、他のかなり多くの栄養素と過剰摂取は中毒症状を惹き起こすなど「有毒性」があることも知っておきたい。
まあなんにせよ、「過剰摂取」は弊害をもたらすことが多いのですな。
バランスが大切。
『釣りバカ日誌5』は、「浜ちゃん=西田敏行」の息子(赤ちゃん)の「鯉太郎」が会社内をうろつき回るシーンが一つの目玉になっている。
「赤ん坊にいろいろやらせる」「しかもふりちん(局部丸出し)である」などについての倫理的課題はここではさて置いて、映画の中盤に鯉太郎が会社ビル内をうろつき、西田敏行をはじめ、他の社員も巻き込んでてんやわんや(←素敵な死語?使いましょう)の大騒動となるのだが、この時間、「分かっていても心地よく、しかもその中に予想不可の展開も含まれている」ので、(あらあ、始まったよ~)などと感じながらも素直に笑える。
その過程で西田敏行の髪の毛が爆発したり、ズボン(西田敏行が履いていると、「パンツ」でなくてズボン)が脱げて派手なトランクス姿になったりと、ほぼお約束のギャグが展開されるのだけれど、それらもやはり心地いいし、例えばこうしたシーンを映画館で観れば、子どもからご高齢者まで分け隔てなくケラケラ笑って愉しめるのは間違いないところだ。
こうした主に「アクション」を用いたギャグシーンもサイレント時代から続く伝統的映画表現であって、「言葉」を用いた高度なギャグもおもしろいけれど、映画の絶対的根本は「映像」なのだから、ぜひこの伝統は守り発展させていってほしい。
ところで私が映画を鑑賞する際の基準は常に、「(自分にとって)おもしろいか否か」、そして「クオリティが高いか否か」なのですね。
前に書いたように、10代の時期は「アート作品最上位」というのはありました。
そう、10代のわたしはちょっとしたスノッブ的意識があったのですね。
その後様々な経験(笑)を経て、現在は「どんなジャンルでもクオリティさえ高ければ大好き!」というスタンスです。
もちろんそこには「好み」の問題もあるのですけれど。
でも世の中にはどうしてもいるのですね、アクション映画やコメディ映画を下に見る人たちって。
わたしは「教養主義」のすべてが悪いとは思わないけれど、どんなものにも「良き~」と「悪しき~」というレベルがあって、アート映画や文芸映画を無条件で上位に置くのは、「(表面的)真面目が最高」という「悪しき教養主義」の影響が取れていないのだと思います。