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極限の愛、日常の愛、その言葉 2018年12月28日 [愛の景色]

今までの愚かな行為を反省し
そして今そのものの
愚かな想いにかなり呆れながらも


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●いまだ侃侃諤諤の「力道山VS木村政彦」に対するコメントで、「知識不足」と「思考停止」を指弾する。 [「言葉」による革命]

●いまだ侃侃諤諤の「力道山VS木村政彦」に対するコメントで、「知識不足」と「思考停止」を指弾する。

末尾ルコ「プロレスの話題で、知性と感性を鍛えるレッスン」

次のような記事があった。

力道山が64年前に木村政彦をKOした理由とは…没後55年に息子の百田光雄が証言
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20181222-00010001-spht-fight

これはYahooニュースへのリンクなので、一定期間後は記事が削除されるだろうが、興味深いのがコメント欄の反応なのだ。
プロレスに限らず、「何かを理解し合い、何かについて語り合う、時に議論する」時に、そもそもの前提認識にがあまりに異なっておれば、「語り合い」にも、もちろん「議論」にもならないのであるが、現在のプロレスと違い、「国民注視」というレベルで行われた力道山VS木村政彦の試合だけに、今でも多くのファンが侃侃諤諤やり続けているし、「プロレス」という大きな曖昧さを含有しているジャンルならではの、「あまりに大きな前提の違い」が随所に見られて、それはそれで興味深い。

では「語り合い」にも、もちろん「議論」にもならない人というのはどのようなものかと言えば、

1前提となるべき最低限度の知識が欠けている。
2思考停止している。

の2タイプがまず挙げられる。

力道山VS木村政彦に関してであれば、

「プロレスはインチキの八百長ショーであり、プロレスラーは皆弱く、よって木村政彦が力道山に負けるはずはなく、この試合もストーリーの決まったショー、あるいは力道山の汚い不意打ちであり、本気でやれば、木村の圧勝のはずである」というものが、「1」と「2」のタイプを総合したものとなるだろう。
ただ、さすがにこの試合を「すべて仕組まれたストーリー」と考える人間は稀であり(稀ではあっても、ある程度は存在する)、多くの「木村政彦の方が強い」派の意見は、力道山の汚い不意打ちであり、本気でやれば、木村の圧勝のはずである」というものだろう。
もちろんそういう可能性はあるけれど、わたしはプロレスのリングで、お互い道着を着ずに、プロレスのルールで真剣勝負をすれば、力道山が勝つ可能性は極めて高いと考える。
その理由は、力道山の方が遥かに体格で勝り、その打撃を思い切り食らえば小柄な木村のダメージは極めて大きく、そもそも柔道家の多くは当然ながら打撃に弱く、寝技に持ち込まなければ木村に勝ち目はないというところだ。
そして体格差や「道着なし」などを加味すれば、打撃を食らわずに寝技に持ち込める可能性も極めて低いと考えざるを得ない。
「道場では力道山は木村に太刀打ちできなかった」とも言われているけれど、同乗練習では本気の打撃は入れないでしょう、と。

とまあ、今回わたしが何を主張したいのかと言えば(笑)、いかなることであれ、「知識不足」と「思考停止」は歓迎されないという真実なのである。

1954.12.22 プロレスリング日本選手権 "昭和の巌流島"
https://www.youtube.com/watch?v=9oNac-RHEIk

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