●末尾ルコ フラグメント「香美市の偽史とナタリア・オシポワ」篇。 [「言葉」による革命]
●末尾ルコ フラグメント「香美市の偽史とナタリア・オシポワ」篇。
物部川流れ 龍王神社鎮座する
香美市の茂ノ盛
かつてオリエントに
アケメネス朝ペルシアが栄えた時代
この香美市の土地は
双生児の君主が支配していたと
宙に佇んだ
ナタリア・オシポワが言っていたのを
わたしは思い出さない
物部川流れ 龍王神社鎮座する
香美市の茂ノ盛
かつてオリエントに
アケメネス朝ペルシアが栄えた時代
この香美市の土地は
双生児の君主が支配していたと
宙に佇んだ
ナタリア・オシポワが言っていたのを
わたしは
思い出さない
物部川流れ 龍王神社鎮座する
香美市の茂ノ盛
かつてオリエントに
アケメネス朝ペルシアが栄えた時代
この香美市の土地は
双生児の君主が支配していたと
宙に佇んだ
ナタリア・オシポワが言っていたのを
わたしは思い出さない
物部川流れ 龍王神社鎮座する
香美市の茂ノ盛
かつてオリエントに
アケメネス朝ペルシアが栄えた時代
この香美市の土地は
双生児の君主が支配していたと
宙に佇んだ
ナタリア・オシポワが言っていたのを
わたしは
思い出さない
●我が母、心臓バイパス手術後、大転子部不全骨折後闘病記&退院後日誌216日目~『イメージの本』・・・ジャン=リュック・ゴダール、WOWOWで放送、その愉しみ方は?~他人様の「全人格を否定」する哀れな人たちとは。 [「言葉」による革命]
末尾ルコ「母の話、健康医療・介護福祉の話題、人間観察の話題」
5月8日(金)手術後411日目
退院後217日目
『イメージの本』・・・ジャン=リュック・ゴダールの。
ジャンーリュック・ゴダールの『イメージの本』。
この5月にWOWOWで放送されるという『イメージの本』。
これは嬉しいこと。
母がお世話になっているケアマネージャーにお薦めしよう。
彼女確か「ゴダールは観たことない」と言ってたし。
そう言えばフランス人の友人フェノン(仮名)はゴダールのことをどちらかと言えば嫌ってた。
「初期ならまだしも、ゴダールのは映画じゃない」と言う。
さらに、「この前、『勝手にしやがれ』を観たけれど、今観たら何のことはなかった」なんてことを言う。
さすがに、(そりゃあないだろう)とは思ったけれどね。
でも映画のことで少々意見が違うからってフェノンを嫌いになることはない。
なんかこう、少しでも意見が違うだけで人様の全人格を全否定にかかる御仁が少なからずおりますね。
そういった人たちっていくら小賢しい知識を持ってても精神年齢は幼稚園児並み、しかも歪んでいるのだなと思ってさほど間違いないと思います。
そんな人たちでもわたしなら「全人格の全否定」なんかしません。
そもそも他人様の「全人格」なんて誰にも分かるもんじゃない。
本人だって「自分の全人格」なんて分かるはずもない。
それを出鱈目な「推理」でもって「分かった木」になって相手を攻撃する御仁が世の中に少なからずいらっしゃいますが、「USURA うましか」としか言いようがありません。
ちなみにわたしは、仮にいろんなことで意見の違いがあったとしても、相手の性格に好意を持てれば嫌いになることはまったくありません。
逆に意見が同じであっても性格がどうにもいただけない人はちょっと。
まして出鱈目な思い込みや「推理」で他人様を攻撃してくる人とかは論外ですが。
おっと、お話がずいぶん逸れちゃいました。
ゴダールの『イメージの本』のお話だったねえ。
ジャン=リュック・ゴダールの作品は「難解」と思われてもいるわけだけれど、どうなんでしょうね。
映画の愉しみ方って、まずは「映像と音声に身を委ねる」ことであって、「解釈」は後回しにする・・・というのがわたしの映画鑑賞法の基本です。
「映像と音声に身を委ねてみて」、退屈すればそれはわたしにとっていい作品ではない。
もちろん時に「解釈」も必要だし、解釈すればするほど、特にクオリティの高い映画はおもしろさが増し、深まってくるものです。
しかし映画、あるいは絵画、写真などであれば、まず作品の「画」に身を委ねてみる(←比喩的な表現ですよ 笑)、これが作品鑑賞の入り口を広げる有効な方法だとわたしは考えます。
5月8日(金)手術後411日目
退院後217日目
『イメージの本』・・・ジャン=リュック・ゴダールの。
ジャンーリュック・ゴダールの『イメージの本』。
この5月にWOWOWで放送されるという『イメージの本』。
これは嬉しいこと。
母がお世話になっているケアマネージャーにお薦めしよう。
彼女確か「ゴダールは観たことない」と言ってたし。
そう言えばフランス人の友人フェノン(仮名)はゴダールのことをどちらかと言えば嫌ってた。
「初期ならまだしも、ゴダールのは映画じゃない」と言う。
さらに、「この前、『勝手にしやがれ』を観たけれど、今観たら何のことはなかった」なんてことを言う。
さすがに、(そりゃあないだろう)とは思ったけれどね。
でも映画のことで少々意見が違うからってフェノンを嫌いになることはない。
なんかこう、少しでも意見が違うだけで人様の全人格を全否定にかかる御仁が少なからずおりますね。
そういった人たちっていくら小賢しい知識を持ってても精神年齢は幼稚園児並み、しかも歪んでいるのだなと思ってさほど間違いないと思います。
そんな人たちでもわたしなら「全人格の全否定」なんかしません。
そもそも他人様の「全人格」なんて誰にも分かるもんじゃない。
本人だって「自分の全人格」なんて分かるはずもない。
それを出鱈目な「推理」でもって「分かった木」になって相手を攻撃する御仁が世の中に少なからずいらっしゃいますが、「USURA うましか」としか言いようがありません。
ちなみにわたしは、仮にいろんなことで意見の違いがあったとしても、相手の性格に好意を持てれば嫌いになることはまったくありません。
逆に意見が同じであっても性格がどうにもいただけない人はちょっと。
まして出鱈目な思い込みや「推理」で他人様を攻撃してくる人とかは論外ですが。
おっと、お話がずいぶん逸れちゃいました。
ゴダールの『イメージの本』のお話だったねえ。
ジャン=リュック・ゴダールの作品は「難解」と思われてもいるわけだけれど、どうなんでしょうね。
映画の愉しみ方って、まずは「映像と音声に身を委ねる」ことであって、「解釈」は後回しにする・・・というのがわたしの映画鑑賞法の基本です。
「映像と音声に身を委ねてみて」、退屈すればそれはわたしにとっていい作品ではない。
もちろん時に「解釈」も必要だし、解釈すればするほど、特にクオリティの高い映画はおもしろさが増し、深まってくるものです。
しかし映画、あるいは絵画、写真などであれば、まず作品の「画」に身を委ねてみる(←比喩的な表現ですよ 笑)、これが作品鑑賞の入り口を広げる有効な方法だとわたしは考えます。