気持ちの置き場というのはどうやらあるようだ。4月4日はまったく気持ちの置き場がなかった。
気持ちなんてものは見たことがない。
それでも気持ちはある。
気持ちはいつもどこかに置かれている。どこかに気持ちがしっくり置かれてない場合の人間は普通脆い。
ぼくも脆かったのだ、4月4日の夜は腕立て伏せもできなかったほどに。
気持ちとはどんな形をしていて普段どんな場所に置かれているのだろう。
そんな一見幼稚な疑問が頭に浮かぶほどぼくの気持は置き場がなかった。
置き場がない時に気持ちはどこへ置けばいいのだ。
置き場はそもそもいつ生まれるのか。
生れた時から置き場はできているのか。
4月4日に始まった置き場のない気持ちはいつ置き場を見つけるのか。