●『男はつらいよ 寅次郎純情詩集』における「奈落落ち」のような「恋の終わりの恐怖」、そして「どんなに頑張っても人生が上手くいかない人たち」への眼差し。

末尾ルコ「映画の話題で、知性と感性を磨くレッスン」

わたしが、「あまりに凄い!」と雷撃を受けた『男はつらいよ 寅次郎純情詩集』と比べると、『寅次郎頑張れ!』は軽快な雰囲気で展開する。
ところがクライマックス、つまり中村雅俊が姉役の藤村志保に、「寅さんと結婚するつもりがないのなら、送ってもらうべきではない」と進言するシーンから、さくらがまた旅立つ寅次郎を見送るシーンまでだが、この集中力・凝縮力は一体何なのだろう。
これができるから山田洋次は「巨匠・名匠」の名を欲しいままにしているのだろうが、あたかも「奈落落ち」のような急展開、溢れ出る感情、冴え渡る映像である。
「溢れ出る感情」と書いたけれど、当然ながら誰も号泣も絶叫もしない。
表上、そして身体のデリケートな動き、あるいは声のトーンなどで丹念に、しかし抉り出すように感情を表出させていく。
もちろん、「いつ。どこで、何を映し出すか」綿密に計算され尽した山田洋次ならではの演出あって、俳優たちの「存在そのもの」がこれ以上ないまでの高みに達するわけだが。
アカペラでシューベルトの「菩提樹」が歌われる中、藤村志保の(寅さんと結婚なんて、夢にも考えたこともない)という表情の残酷さ。
しかも台詞ではそんなこと、一切語らせないのだ。

「ひとつの恋が終わる時」の、まるで「自分の存在そのものが否定される」ような、ほとんど恐怖とも言える感覚は、経験した人であれば誰でも理解できるだろう。
『男はつらいよ 寅次郎頑張れ!』のクライマックスは、有史以来人間が普遍的に体験し続けている「恋の終わりの恐怖」を、あまりに的確に描き切っている。

そして『男はつらいよ 寅次郎頑張れ!』の中でも見られるのが、

「何も言わずに空を見つめる寅次郎のクローズアップ」だ。

これが何とも凄い。
いつも明るく元気な寅次郎が、ここでも表情を作ったりはしないが、

「自らの人生そのものの重みに対して、懸命に堪えている」ように見えるのだ。

(ああ、どんなに頑張っても、人生うまいこといかないな・・・)と、嘆きはしないし、諦めもしないけれど、時に(この人生に耐えられるのかな?)と疑問も過る、そんな表情。
しかし寅次郎は必ずエピローグで新たな旅先で、新たな笑顔を振りまき始める。

こうして『男はつらいよ』を鑑賞していると、車寅次郎が、

「どんなに頑張っても、人生が上手くいかない人間」を代表し、象徴する存在にも感じられてくる。
そして寅次郎はこうも語りかけてきてはいないだろうか。

「そもそも誰の人生が上手くいっていると言うんだい?みんな笑顔の裏に隠しているのさ。そして人生は、上手くいかないから味わいが深いっていうもんだ」と。