前回紹介した文章。
これは本当に好きだ。
翻訳の力ももちろんあるが、恋をする二人が一緒にいる時間。
しかしすでに多くのことを経験している二人だ、浮かれた気分には程遠い。
二人でいる幸福感はやや淡く、常に不安が心に翳をさして来る。
そんなとき、周りの景色や人間はゆっくり動く、魔法にかけられた夢のように。
「番人」「あかり」「気船」「フェオードシア」・・これらの名詞が感覚に鋭敏に働きかける。

一人の男が近寄ってきた。きっと番人なのだろう。二人をちょっと眺めて立ち去った。こんな些細なことまでがたいそう神秘的に美しく思われるのだった。朝焼けに照らされ、もうあかりを消した気船が、フェオードシアからやって来るのが見えた。

                   「犬を連れた奥さん」チェーホフ著 小笠原豊樹訳