例えば次のような文章がある。

写真論は、過去の被写体とその時間の絶対的な単一性が、写真の中で永遠に存在し続けているかのような美的イメージ(「聖なる遺物」「静止した時間」「光の化石」等など)に溺れる悪癖を持っている。

この文章は美術評論家清水穣の月評第21回(「単一性」と「複数性」の往還  「美術手帳」2010年6月号より)の冒頭の文章だ。

誤解のないように書いておくが、わたしは別にこうした文章を嫌っているわけでもなければ、尊敬すべき美術評論家を批判しようなどとしているわけでもない。こうしたスタイルの文章を「美しいな」とため息をつきながら読むこともあるし、非常に刺激を与えられる場合も多い。しかしそれと同時に、「うふっ」と美苦笑したくなる衝動も抑えることはできない。人によっては生涯一度も関わることのないような文章だ。