「司会者」・・例外もあろうが、わたしは司会者という仕事の属性が好きではない。
例えば結婚式の司会。
結婚は当事者にとって最大限に神聖でプライベートなものであるはずなのに、変な「司会業」のような連中に大切な「2人の歴史」を語らせていいのか?
このあたりの神経が理解不能というか・・「思考停止」なのでは?
「司会者」で思いだすのは沢尻エリカの「別に」事件(笑)もそうだ。
沢尻エリカの態度というのはときに褒められたものではないかもしれないが、わたしはまったく許容範囲だと思う。
そもそも沢尻エリカは美しく、演技の才能もあり、しかも作品に対して真摯な努力をする・・いわば大女優になれるだけの人間だ。
それが「別に」と言って少しふくれっ面したくらいでたいへんなバッシングに合ってしまったし、長期間仕事ができなくなった。(結婚の影響もあっただろうが)
沢尻エリカと比較したら、美しくもなく、才能もなく、しかも真摯な努力もしている様子のない芸能人がCMやバラエティで大金を手にする方がよっぽど人々を愚弄している。
だいたい「別に」シーンを見てそんなに怒るものなのか?
わたしはワンパターンの「まとめ方」で場を収めようとする司会者がおたおたするのを見て、「よくやった沢尻!」と思ったほどだ。
多くの「司会者」のやることは、「自分たちの貧しい世界観の中にそのイベントを収めること」、「そのための段取りを無難にこなすこと」だけだ。
比較したくもないが、米国アカデミー賞のビリー・クリスタルなどの司会と日本アカデミー賞の関口宏と比べてみれば分かる。
日本がまだ、文化に対していかに貧しい国であるかが。

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ずいぶん最初から横道に逸れたが、「めざましライブmeet恋時雨」の記事を読んでいると、どうやら「理解の範疇」を超えた吉高由里子の言動に、司会者がおそまつな対応をしたとしか思えないのだ。
例えば吉高由里子が「恋時雨」に関して「自分が経験していないこととかが書いてあるので……、感想で演じました」と語ったことに対して司会者が困惑したという趣旨の記事があるが、このフレーズにどう困惑するのだろう。
実に分かりやすい表現ではないか。このフレーズに困惑するくらいなら、「言葉」を使う仕事はいっさいしない方がいい。

この話題はさらに続く。

「ブザー・ビート」の北川景子の「実験」とわたしは思っているのだが、よく観ていると(よく観ていなくても)あえて大袈裟な表情を作る場面と、微細な顔色の変化で感情を表現しようとする場面の2種類ある。
大袈裟なシーンは製作者が「話題になってほしい」と考えて入れているとものと思われるが、そのリクエストに応えて北川景子は敢えて大袈裟な表情を作り、「どのくらいの表情ができるか」実験している。
そして「微細な顔色」の変化は本格的な感情表現の実験だ。
わたしたちは北川景子の「微細な顔色」の変化を見て、例えば1年前と比較して長足の進歩を遂げていることを確認できる。
北川景子は見る見る演技力が向上している。
これだけはっきりと進歩が目に見える女優は珍しい。