●シーモンキーのセックスを、わたしは見た、そんな幼い頃である。

末尾ルコ「詩的昭和断片エッセイで知性と感性を鍛えるレッスン」

シーモンキー。

なぜシーモンキーを買ったのか。
おそらく当時、子ども向けの雑誌広告などで普通に見かけたのだろう。
買ったのはその頃まだ高知にも2か所あったデパートの一つだった。
ちなみに現在高知にあるデパートは「高知大丸」のみであるが、しかも東京など都会の大丸を想像してはならない。
シーモンキーをわたしに買い与えてくれたのはもちろん父だろう。
わたしがねだったのかもしれないが、父はそのテのものが好きだったのだ。
わたしはシーモンキーの入った容器を手にしてワクワクしていたのだろうか。
きっとしていたのだろう。
けれど今、その感覚を思い出すのは難しい。
あれは細長い円柱型の容器だった。
水を張り、「粉」を入れると、確かに小さいものが水中でピコピコ動き始めた。
(これが「水中の猿」か・・・)

もちろん今なら検索してシーモンキーが「アルテミア」という姓物であることがすぐに分かるだろう。
しかし当時のわたしには、シーモンキーはシーモンキー以外の何者でもなく、ひょっとしたらパッケージに解説の一つでもしたためられていたのかもしれないけれど、読んだ覚えはない。

最初小さな粒がピコピコ動いている様子だったシーモンキーたちは見る見る大きくなり、わたしは(ふーん、猿と言えば、猿かなあ)くらいに考えていた。
しかしそのうちに、シーモンキーたちはセックスを始めたのだ。

シーモンキーのセックス。

もちろん交尾と呼んだ方が適当なのだろうが、わたしはここで敢えて「シーモンキーのセックス」と表現しよう。
それはやや大きめになった節足動物たちが二体ずつくっついたまま浮遊している姿に過ぎず、実は当時のわたしには何をしているのか分からなかった。