●日本的SMエロティシズムとは何か?あるいは『タイガーマスク』のルリ子先生にほのかに漂うもの。

末尾ルコ「エロティシズムの話題で、知性と感性を鍛えるレッスン」

SMという言葉は日本でも十分人口に膾炙していて、中学生とか、あるいは小学生くらいでも、「あいつ、Sだよね」とか、そういった会話が普通に行われている。
SMという略称はもちろん「サド・マゾ」から来ているわけで、「サド・マゾ」はもちろん、「マルキ・ド・サド」と「ザッヘル・マゾッホ」である。
しかしもちろん大部分の日本人が「SM」という言葉を知っていても、「マルキ・ド・サド」と「ザッヘル・マゾッホ」まで遡って知っている人はほとんどおらず、それで別に日本社会が困ったことになるわけでもない。
わたしはここで別に「日本人よ、SMの原点を見つめよう!」などとアピールしているわけではない。
そしてわたし自身、SMプレーを実行したこともないし、今後もその予定はないのである。
ではなぜ今ここでSMの話題を持ち出しているかというと、「エロティシズム」を考える時、「SM的メンタリティー」という実に人間的な嗜好性は、個人的あるいは民族的違いも含めて興味の尽きない対象だからである。
そう、わたしたちは決して動物たちがSMプレイをしている様子を見かけたことはないに違いない。
雄犬が雌犬を縛って責めている姿を見たことはないし、雌スズメが雄スズメを鞭で責め、雄スズメが苦痛と快感の悲鳴を上げている姿も見たことがない。
ましてや、浜辺で雌アサリがハイヒールを履いて、雄アサリの敏感な部分をぐいぐい踏みつけている姿など、有史以来誰が観察したというのか?

とまあ、いささか自分でも(何を書いているんだ、おれは)感がなくもないけれど、ここでわたしが以前から主張していることを言わせてもらえば、

「SM的メンタリティーを含め、日本人独特のエロティシズムというものがあり、わたしたちはその精神性を守り、より洗練されていくべきだ」

とまあ、そうしたことである。

例えば子どもの頃に読んだ江戸川乱歩の小説や、あるいは「炬燵」「せんべい布団」「障子」「襖」などの魅惑を捨ててしまうことなく、常に洗練されていくべきなのである。
それは例えば、『タイガーマスク』のルリ子先生の姿にさえ表れているのだ。