●子どもの頃のあれとあれは、時にセックス以上の快感であったはずだ。

末尾ルコ「エロティシズムの話題で知性と感性を鍛えるレッスン」


この前、次のような文章をアップしたのをご記憶の方も多いだろう。

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漫画の方はやや丸っこいタッチの『タイガーマスク』は、テレビアニメではラフな線の劇画タッチになるのだが、どうしてもしょっちゅう、「血がドバッ」なシーンがあって、わたしは正視できなかった。
それが時を経て、本物のプロレスの流血戦で盛り上がるようになるとは夢にも思わなかった幼年時代だ。
『ゲゲゲの鬼太郎』は、オープニングのテーマ曲のイントロで、「ひゅ~~どろどろ」てき音がかかるのだが、そこだけでビビりまくっていた。
そしてもう一つ重大なことを述べておこう。
それは「怖い」ではなく、「恥ずかしい」という感情についての話だが、わたしは幼少時、

『魔法使いサリー』が

恥ずかしくて、家族の者が部屋の中にいる時に、正視できなかったのである。
特にあのオープニングテーマが。

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で、『魔法使いサリー』の、特にオープニングテーマ曲が恥ずかしくて正視できなかったということに関連してお話を続けようと思うが、なにせあの、弾けるような「少女な」歌がかかっている画面を自分が見ているところを親に見られるわけにはいかなかったという心理があった。
たとえ親であっても、わたし自身が「女の子に関心がある」と思われたくなかったのだ。
もちろん女の子と話ができなかったとか、そういうことではない。
わたしはどちらかと言えば、女の子と仲良くするタイプの子どもだった。
しかしそれでも、「あくまで友達として仲良くしている」という前提でなければならず、「特定の好きな対象として女の子を意識している」と思われてはならなかったのだ、少なくとも小学3年生くらいまでは。
実はわたしは保育年の頃から数人(笑)、特定の女の子が好きだったのだけど、「~ちゃんを好き」などという情報は絶対に気づかれてはならないトップシークレットだったのである。
とは言え、「気づかれてはならない」情報だからこそ、心のどこかに「気づかれたい・気づかせたい」というやきもきしたじれったくも嬉し恥ずかしい心理がもちろんあった。
しかしこの、「言えないけど、言いたい」~「言いたいけど、言えない」~「気づかれてはいけないけど、気づかれたい」という子どもながらに複雑な心理は、それが容易に公にできないことだからこそ、ちょっとしたことで恋心が天にも昇るような炸裂した気分を味わうことができる。
その一つが、「席替え」である。
普段(好き)という気持ちは素直に表せず、だから容易に話しかけることもできないだけに、「席が隣(あるいは前か後ろ)になる」という状態は、ほとんど「同じ家で暮らし始める」ような快感があった。
もう一つがそう、フォークダンスの時間であり、目当ての女の子が少しずつ近づいてくるあのスリルと興奮は、小学生時代のハイライトと言ってもいい。
好きでもない女の子の手の感触は単に皮に覆われた肉(笑)に過ぎないけれど(ま、男の子が相手でもそうですが)、好きな女の子の手の感触というのは、首筋から踵まで痺れるような、子どもなりの性的な興奮があったのである。