●細川ふみえ、井上晴美、飯島直子、中條かな子・・・90年代、「巨乳」の氾濫は日本人に何をもたらしたか。

末尾ルコ「エロティシズムと昭和文化史の話題で、知性と感性を鍛えるレッスン」

「巨乳」という身も蓋もない言葉が一般化したのは90年代だった。
「巨乳グラビアアイドル」「巨乳タレント」などなどという言葉が躍り、伝統的な日本人女性とはかなりかけ離れたバストを持つ芸能人がメディアを賑わせた。
「胸の大きな女性芸能人」という存在は90年代以前にも局地的になくはなかったが、「巨乳」という言葉が人口に膾炙することで、日本人の精神や知性の傾向をかなり変更してきた。
「巨乳」という言葉だけでなく、「言葉の力」はそれほどまでに強力なのである。

「巨乳タレント」としてメディアに頻繁に登場していたのが、細川ふみえであり、井上晴美、その文脈とはちょっと違うかもしれないが、飯島直子、中條かな子などだった。
やはり細川ふみえは気の利いた喋りもできて、ちょっと現在の壇蜜と重なるポジションだった時期もあったと思うが、女性たちからのウケはまったくよくなかった。
この中で、女優としての可能性を一番持っていたのはその顔だちなどから井上晴美だったと思っていたが、本人にも事務所にもその気がなければ無理な相談だったのだろう。
プロポーションなどがわたしの好み(笑)に近かったのは中條かな子だったけれど、この人はそれこそ容姿以外はとてつもない素人以外の何者でもなく、その後、現広島カープ監督の緒方孝市と結婚したが、結果的にはよい選択だったのだろう。
飯島直子は「姉御」的イメージで「カッコいい女」などとも言われていたが、わたしにはまったくそうは思えなかった。(個人的感想です)

「巨乳」について言えば、わたしは個人的に当時男性誌のグラビアに氾濫していた「巨乳タレント」を広告や書店に並んでいる表紙などで眺めながら、(こういうのを写真で見て、何がそんなに楽しいのだろう)と疑問に感じていた。
わたし自身の女性の容姿に対する基本的「好み」は、「バランスの取れた外見」であり、「胸がとても大きい」という項目(笑)が入ったことは一度もない。
しかし「誰かのすべて」を好きになれば、本来「好み」ではないようなその人の容姿まで好きになるのが普通であり、現にわたしも今まで付き合った女性の中には胸の大きかった人もいる。
しかしそれは「リアルな人間関係」の中の話であり、グラビアというものは「見るだけ」であるから、あの当時、「大きな胸の女性」を「見るだけ」でヴィジュアル的、あるいは性的興奮を覚えていた日本人男性は無数にいたのである。

男性であれ女性であれ、性愛の対象の身体の一部や着用物に対してフェテイッシュなファンタジーを持つのは人間として常識的なことであり、それを犯罪などに結び付けなけることさえなければ、エロティシズム文化として大いに愉しめる要素ではある。
しかし「巨乳」というあまりに大雑把で即物的な括りは、90年代以降の日本人に対して決していい影響を与えてはいないと思う。