●幻想の愉しみ~「ヒクソン・グレイシーVS前田日明」が実現していれば・・・「力道山―猪木―前田」のラインとは?

末尾ルコ「プロレスと格闘技の話題で、知性と感性を鍛えるレッスン」

1983年に前田日明がヨーロッパから帰国し、凱旋試合として行われたポール・オーンドーフ戦で、いかにも実力者っぽいオーンドーフを一蹴した瞬間を見た時には、(ああ、ついに猪木の真の後継者が現れた。これで新日本プロレスは今後20年は安泰だ)と思ったものだが、そうはならなかったことを知らないプロレスファンはいない。
前田日明に対して複雑な心情を持っているプロレスファンは多いが、わたしもその一人だ。
そして前田日明という人間は容易には語ることのできない複雑さを持っており、その反面、極めて単純で滑稽な面も併せ持つ、だからこそより複雑なのかもしれない。
前田日明は、「語れるプロレスラー」としてはプロレス史上屈指の存在なのだが、例えばプロレス誌のインタヴューなのに自分が傾倒しているシュタイナーやグルジェフなど神秘思想家について講釈をたれるなど、読んでいて(やれやれ)と感じることも多かった。
しかし「総合格闘技的流れ」を日本に定着させたという意味ではアントニオ猪木に次ぐ存在だったのは間違いない。
UWFの象徴は前田日明であり、決して佐山聡でも高田延彦でもなかった。
後にUWFインターナショナルで高田が「最強」イメージを押し出すけれど、それはあくまでプロレスファンの間でのみ流通した話であって、「最強高田」イメージが総合格闘技的流れに貢献したとは言い難い。
そもそもゲーリー・オブライトや北尾光司あたりと戦って、「最強」とは片腹痛いのだが、皮肉なことに高田の場合はヒクソン・グレイシーに「ほぼ秒殺」されたことによって、日本の総合格闘技的流れに多大な貢献をしてしまった結果となる。
いまだにヒクソン・グレイシーVS高田延彦については、「あの時どうだった、こうだった」と喧々諤々されており、あの試合はプロレスではなかったものの、そしてもう昭和ではなかったものの、「昭和プロレス的規模」の試合だったと言える。

高田延彦の敗退を受け、前田日明がヒクソンとの対戦をアピールしたけれど、もちろんこれは実現しなかった。
もし実現しておれば、前田日明という人間の、高田延彦とは比較にならないレベルのカリスマ性により、試合会場は「アントニオ猪木VSウイリー・ウイリアムズ」以来の殺気立った雰囲気となっていた可能性が高く、わたしたちはそんなワクワク感を欲しているのだけれど、実際に当時の前田が「ヒクソンVS高田」と同様のルールでやっておれば、勝つ可能性は極めて低かっただろう。
リングス設立後、前田日明の肉体は見る見る贅肉だらけとなり、そしてリングスにブラジリアン柔術の選手を招いても、イリューヒン・ミーシャや日本人の弟子に試合をやらせていた状態だったのは、もちろんそれは、(自分がやって負けたらまずい)という判断が働いてのものだったのだろう。
ただ、もし「ヒクソンVS前田」が実現しておれば、技術的には太刀打ちできない前田でも、ひょっとしたら反則でも何でも使ってヒクソンを痛い目に遭わせるのではないか・・・要するにそんな愉しい幻想を持たせてくれる日本人レスラーの系譜として、

「力道山―猪木―前田」というラインがあったのである。