●ケニー・オメガVSジュース・ロビンソンが「ホモ的」に見えて、ビリー・クリスタルの『ソープ』とLGBTについて、小さな思考を凝らしてみる。

末尾ルコ「プロレスと社会問題の話題で、知性と感性を鍛えるレッスン」

今日び、あまりヘンな書き方をしてはいけないが、ケニー・オメガVSジュース・ロビンソンの試合を観ていて、「マッスルな男同士の愛の戯れ」に見えたのはわたしだけか?

わたし自身は完全にストレートで、女性に対してしか恋愛感情ないし情愛感情を抱くことはないが、人生を通して多様な芸術を愉しんでいる人間として、LGBT(性的マイノリティ)の方々に対する偏見は、若い頃から無いつもりである。
なぜならば映画界だけを取ってみても、ルキノ・ヴィスコンテ監督がゲイであるとか、淀川長治がゲイであるとか、そのような話は普通に出てくるし、大人になってからだが、ゲイの方たちを知り合うことも少なからずある。
ただ、わたし自身がゲイではない以上、本当にそうした人たちの苦悩を理解できるかと問われれば、それはなかなか難しい。

冒頭に挙げた、ケニー・オメガVSジュース・ロビンソンを観ていても、どちらのレスラーも均整の取れたマッスル体形に仕上げ、ヘアスタイルや髭の剃り方、リングコスチュームも過剰なまでに「お洒落風」であり、こんな二人が完璧に息の合ったコンビネーションで複雑な技を掛けたり、掛けられたり・・・そしてこうした観方をすべきでないのは重々承知だが、試合展開の中で、「相手の股間に首を突っ込む」とか「相手の脚を自分の股間にぎゅうぎゅう圧しつける」とか、そんなシーンを目撃したら、ついつい口元が緩んでしまうのである。

思えばプロレスに限らず、映画、テレビドラマ、小説などでも、昔から「ホモネタ」のシーンはおもしろいものが多く、例えばかつて日本のテレビで米国の『ソープ』というコメディドラマを放送していたのだが、映画スターになる前のビリー・クリスタルが「ホモ」の役で出演していた。
『ソープ』でこのビリー・クリスタルが登場するだけでおもしろく、それはビリー・クリスタルの圧倒的魅力とスキルあってのことなのだが、その優雅な微笑を含んだ口元や意味ありげな視線、女優たちよりもずっと「女性」を感じさせる物腰など、大いに笑わせてもらった。
しかしもちろんこのような俳優のキャラクターが人気を博することで傷ついていたゲイの人もいるだろうし、かと言って、「ホモネタ、タブー」はあまりに狭量だろう。

この問題を短い一記事で何らかの結論に持って行こうとは思わない。
が、「表現の自由」以前に、「感じ方の自由」という問題がここには含まれており、今後も思考を続けていきたい。