●LPレコードはなかなか割れなかったことはさて置いて、『村松友視のプロレス塾』における村松友視の「ドリー・ファンク・ジュニア感」。

末尾ルコ「プロレスの話題で、知性と感性を鍛えるレッスン」

『村松友視のプロレス塾』を読むと、村松友視の心の中のドリー・ファンク・ジュニアがいかに高級だったかがよく分かり、それほどまでに「高級」だと信じていたドリー・ファンク・ジュニアがどんどん安くなっていく現実を前にしてとてもとても受け入れ難く、けれそ結局は受け入れざるを得ないこと間違いなしの近い将来が待っていること必定で、村松友視のブロークン・ハートを慮(おもんばか)ると(可哀想じゃあああああああ)とわたしの心が掻き乱されることはない。
それにしてもなぜ今、『村松友視のプロレス塾』なのかと言えば、BOOK OFFで文庫版を108円で売っているのを見かけたからで、村松友視のプロレス関連の本は発売するたびに購入し、熱心に読んでいたあの時代。
しかし猪木も新日本プロレスも想像していなかったような体たらくになっていくに従って、「村松本」を紐解く気分にはならなくなってきた。
そして村松友視関連だけではないが、家を建て替えたことも含め、自分の過去を「すべて嫌悪する」時期もわたしにはあり、本もレコードもほとんど捨ててしまったものだ。
しかしかなり集めていたレコードを捨てたのは惜しかったなと、それは今となっては少々後悔している。
ちなみにLPレコード・・・過去のすべてを捨て去ろうと、持っていたものを全部ぶち割ってから処分しようと試みたのだが、LPレコードって弾力性があって、簡単には割れなかったのです。

『村松友視のプロレス塾』をこの2017年に購入し、読んだのは、「あの時期、村松友視がどう書いていたか」という興味以上に、わたし自身が当時どのような心境だったか知る縁(よすが)になるのではないかという思いだったのであり、その期待通り、なかなかおもしろい読書時間となった。

『村松友視のプロレス塾』に載っているエッセイが取り上げているのは新日・全日の引き抜き合戦が激しくなってきた時代であり、「プロレスの見方ではなく、新日の見方じゃないか!」と全日本プロレスファンに批判されることもあった村松友視らしく、タイガー・ジェット・シンやスタン・ハンセンの全日移籍に対する「残念さ」を行間から漂わせまくっている。
しかしその話題より遙かにわたしの興味を引いたのが、「痩せてきたドリー・ファンク・ジュニア」についての文章で、要するに、

「テレビやプロレス誌では、体重を絞って全盛期の動きを取り戻したドリーと言われているけれど、病気のような痩せ方にしか見えず、その点について誰も言及しないのはおかしいのではないか」という趣旨だ。

プロレスメディアが「おかしい」のは今も昔も変わらないが、それよりも村松友視がドリー・ファンク・ジュニアに対してこの時点でも、「偉大なアスリート的プロレスラー」としての期待を持っていたことに大きな興味を引かれたわけだ。