●実は高知の冬も寒い話から、「いきなりラリアート」の危険なスタン・ハンセンの方がカッコいいという話へと。

末尾ルコ「プロレスと日常描写の話題で、知性と感性を鍛えるレッスン」

高知は「南国土佐」と呼ばれ、事実その通りなのだから夏はとても暑いのだけれど、冬に温暖かと言えば、いや、上等に寒いのである。
現にこの12月6日の朝もとても寒かった。
その寒さは北国と比較すればそれほどでもないのだろうけれど、夏に猛烈に暑く、元来寒さに慣れてないものだから、冬の寒さはとてもこたえる。

高知も冬は寒いのである。現在も寒いのである。寒いと嬉しくないのである。

ところで1977年愛知で行われたNWFへヴィー級世界選手権「アントニオ猪木VSスタン・ハンセン」の際、レフェリーの選手コールの時にスタン・ハンセンは「ウィー」をやってなかった。
記録を見ると、1977年だけで「猪木VSハンセン」のシングル・マッチが7回行われており、その多さに驚かされるが、それはさて置き、レフェリーコールの時に「ウィー」をやらないスタン・ハンセンが、「やる」スタン・ハンセンよりもわたしは好きである。
プロレスラーとして稼いでいくための最も大きな「価値」は「集客力」であるわけで、まず観客・ファンに「記憶される」、そして「あのレスラーの試合はおもしろい」と認識される、さらに「固定ファンを多く作る」という過程をほとんどのプロレスラーが望んでいるだろう。
だから、多くのレスラーが「キャラ立ち」を志し、もちろん所属団体やプロモーターとの相談の上で、社会生活上とはかけ離れた姿や人格を造形するわけで、そこがプロレスのおもしろいところでもあるけれど、造形されたキャラクターが常にファンに歓迎され、定着するわけではないところが難しく、おもしろいところだ。
現在のWWEのように、レスラーたちのキャラクター造形がシステマティックに過ぎ、明確にシナリオライターたちの姿が透けて見え過ぎるようになると、わたしなどは白けてしまうのだが、もちろん「現在のWWEファン」たちはそうか感じてないわけである。
あるいは、「作り過ぎる」とキャラクターは「幼稚化」していくとも言えるのだろうが、もっと突っ込んで考えれば、「幼稚化してOK」のレスラーもおれば、「幼稚化してつまらなくなった」レスラーも存在すると、わたしの感覚ではそうなわけで、スタン・ハンセンは後者なのである。

ただ、「ウィー」を連発し、ラリアートを出す前に高く左腕を挙げ、肘のサポーターを観客に分かりやすく巻き直すワンパターン動作が定着したスタン・ハンセンよりも、(いつラリアートが出るんだ?)とハラハラさせられていた「危険なスタン・ハンセン」の方がずっとカッコよかったのである。