●三山ひろし「四万十川」に「歌碑」は相応しいのか?あるいは、「帯屋町ブルース」に見る、一部(?)「ご当地ソング」のお粗末。

末尾ルコ「音楽の話題で、知性と感性を鍛えるレッスン」

三山ひろしは高知出身の若手演歌歌手で、今年で『紅白歌合戦』に3回目出場、「同郷」だからといって何でもかんでもよいしょする習慣はわたしにはないけれど、この歌手はいい歌い手だとは思う。
しかし、「四万十川」という歌を知っているだろうか?
わたしは今年から自覚的に演歌を聴き始めるまでは、この曲を知らなかった。
そして歌を聴き、歌詞を見てみると、「四万十川」という固有名詞を別の川の名にしても別に不自然ではないほど大雑把な「川の歌」と感じた。
ところがこの「2016年リリーズ」の歌の「歌碑」が、「2016年5月」に四万十市の高台に建立されたという報道には驚かされた。
「歌碑」だけでなく、「碑」的な存在に対しては、わたしの中で賛否両論あって、どちらかと言えば「否」の方の度合いが高いのだけれど、それはさて置き、「碑を建立」する人の気持ちとして、「半永久的な存在」と認識しているのは間違いないだろう。
そのようなものであるに関わらず、「2016年にリリースされた演歌の歌碑をその年のうちに」というのはあまりに軽過ぎはしないか?

わたしは別に三山ひろしや「四万十川」という歌や、まして歌碑を建立した人たちをディスりたいわけではない。
そして、「四万十川」の歌碑の問題だけを言いたいわけでもない。
「ものごとに対するメンタリティ、あるいは反応」が、もうずっと前から「日本全国同じようなもの」だと感じており、その一例として、「四万十川」歌碑の件を取り上げているのだ。
そう。敢えて品のない言葉を使えば、

「今の日本、どこを見ても目の前のニンジンにがっつき過ぎ」なのである。
つまり、「儲かりそう・得になりそう」と感じた対象には、矢も楯もたまらず、まともな考えもなしで飛びついてしまう。
とても情けない姿だと思う。
こうした状態を肌で感じている子どもたちは、当然同様の感覚で人生を送ろうとするだろう。(その中の少数派は反発するかもしれないが)
あるいは、「美」という観点から見ても、けっして美しい姿とは言えない。

繰り返すけれど、三山ひろし自体は演歌界には珍しく明るい雰囲気を持ったスター歌手だと思う。

ついでに書いておけば、最近「水雲-MIZMO- 」女性3人のヴォーカルグループが「帯屋町ブルース」という曲をリリースしているが、「帯屋町」というのは高知の中心的商業地なのだけれど、この歌の内容も、「帯屋町」を別の地名にしても一向に問題ない大雑把なものだ。
「ご当地ソング」流行りのようだけれど、もうちょっとまともな歌詞を作らねば、お話にならない、といずれなっていく。