●ネット民、「右」にも「左」にも多くの思考停止が存在&星野仙一と暴力性&「追悼」でなく「愚弄」する日本のマスメディア。

末尾ルコ「日本社会観察で、知性と感性を鍛えるレッスン」

思想的に「右」とか「左」とかいう分け方にいまだにとてもこだわっている人たちが、特にネット民の中には多い。
そして概ね自分を「右」と認識している人たちは「左」の人たちがすべて思考停止していると信じ、自分を「左」と認識している人たちは「右」の人たちがすべて思考停止していると信じている。
これではどこにも接点など生まれるわけないですな。
わたしの観察では、「右」であろうが「左」であろうが思考停止の人間は存在するのであり、しかし近年では「右」の思考停止が増加しているのをひしひしと感じている。
戦後しばらくの間、日本社会、特にある程度教育レベルに自信のある層の中では、「左でなければ、馬鹿である」という風潮があり、マジョリティの自信満々の「左」の人たちの中に思考停止がどんどん増えていった歴史がある。
マイノリティに追いやられていた「右」の人たちはその状況を打破すべく思考を凝らす必要があり、もちろん「シンプル過ぎる右」も少なからずいただろうが、現在から見れば、「右論壇」の方がおもしろい内容が多かった。
ところが現在は「右」がマジョリティになりつつあり、こうなると「右」の中に多くの思考停止者が生まれるのは皮肉なものである。

昨日星野仙一について少し書いたが、わたしはこの人に対し、「どちらかと言えば好き」というくらいでさしたる思い入れはないのだけれど、ふと「監督時代、よく選手を殴ったりしていたのでは・・・」と思い至った。
ただ、わたしの中ではそうしたことははっきりとした記憶や記録として残っているわけではないので何とも言えないが、現在なら監督が選手を殴るのは「アウト」だろう。
追悼ニュースや追悼番組ではどうしても美談が中心となるけれど、わたしの中で「星野仙一」と「暴力性」は分かち難く結びついており、その点について触れられることが少なかったのには違和感があった。

ところでもうこれはずっと前からの日本のマスメディアの「病気」と言っていいのだけれど、「日本社会や文化に大きな貢献をした人たち」に対する追悼をまともにやらない。
例えば一人の俳優が死去したとする。
しかしテレビでも新聞でもたいがい小さな扱いで、そして最も許し難いのは、俳優の「本当の代表作」を紹介するのではなく、晩年にちょい役で出たドラマなどの映像を流したり、自局のトーク番組出演の際の映像を流したりと、追悼どころか「愚弄だろう!」と怒りを覚えることしばしばである。
この点については本当に「目に余る」状況なので、手を変え品を変え、追及していきたいと考えている。