●「尻」に注目する不埒な視聴者多数の『ブラタモリ』近江友里恵の後任は誰か?&赤木野乃花アナのエロティシズムとは?

末尾ルコ「エロティシズムの話題で、知性と感性を鍛えるレッスン」

『ブラタモリ』はタモリと近江友里恵が各地を経巡る番組で、地形や地学的知識を中心に据えながら高視聴率を稼ぐという離れ業を見せつけている点は言うまでもなく「タモリの凄さ」であるが、アシスタントの近江友里恵アナを見ることを愉しみにしている視聴者も多かろう。
目にした話であるが、不埒なことにタモリとともに様々な場所を経巡る近江友里恵の後ろ姿のしかも「尻」に注目している視聴者もいるという。
妙齢の女性の「尻」を凝視??
そんな不逞の輩はわたしが見つけ次第、でっかいお灸をすえるに違いない。
と書いたところで、わたしが子ども時代、わたしの周囲に何人か本当にお灸をすえていた人たちがいたことを思い出した。
母方の祖父母がやっていたのは間違いないだろう。
母自身、時折「お灸が熱くて痛かった」ことを語っている。
この場合の「お灸」はもちろん、「もぐさ」を使用して火を点けるものだ。
ひょっとしたら、父方の祖父母、つまりわたしが子どもの頃に同居していた祖父母もやっていたかもしれない。
わたしがお灸をやられたかどうかははっきりと記憶していない。
ただ、(お灸をやられたら辛そうだな)と脅威を感じていた記憶はある。

ところで『ブラタモリ』視聴中に、近江友里恵アナの「尻」に注目することは倫理的に咎められるべきだろうか。
「咎められるべきではない」と、わたしはそう思う。
近江アナの「尻」について、ネットであれ、紙媒体であれ、「愚劣な言葉で描写」とまで行くと、「咎められるべき」状況も発生するだろう。
しかし「イマジネーション」にとどまっている段階では、いかなる猥褻、卑猥、ふしだらなどであっても、咎められるべきではないのだと思う。
そうした「イマジネーション」を「外へ出そう」という場合に、細心の注意が必要となるのだ。
もちろん「極度に猥褻」なイマジネーションは、原則として「外へ出すべきではない」。
が、マルキ・ド・サドの小説が時代を超えて「傑出した文学」として読み継がれているように、「芸術表現」としてであれば、原則「いかなる猥褻」も自由であるべきだろう。
ただ、ここでも「原則」という留保がついているのを見逃してほしくない。

「エロティシズム」は、「わたしの」、と言うよりも、「人類の」大きなテーマである。
さらに強力に深めていきたい。

ちなみにわたし自身は、近江友里恵のプロポーションに対してファンタジーを抱かない。
それよりは同じくNHKの赤木野乃花アナの、やや倒錯的トランジスタグラマーなキャラクターであれば、少々のファンタジーを抱くだろう。

さて、『ブラタモリ』、近江友里恵の後任は視聴者を満足させるだろうか。