●『武田鉄矢の昭和は輝いていた』の、田中絹代、原節子、京マチ子を観ながら、現在日本の映画ファン状況について概観し、今後の方針に思いを馳せる。

末尾ルコ「映画の話題で、知性と感性を鍛えるレッスン」

BSテレビ東京の『武田鉄矢の昭和は輝いていた』で、田中絹代、原節子、京マチ子が取り上げられていて、これはなかなかに貴重な映像も紹介されて、観どころたっぷり。
ゲストは司葉子。
賞味45分足らずでこの伝説的大女優たち3人を振り返るのは駆け足にならざるを得ないが、それでも実に有意義な時間となった。

田中絹代、原節子、京マチ子・・・わたしの父は実はさほど映画を観ていたわけではなかったが映画の話をするのは好きで、ハリウッド女優としてはイングリッド・バーグマン、日本の女優としては田中絹代を神格化していた。
後年分かったのだが、父はバーグマンの映画も田中絹代の映画も、観ているとしても1~2本であって、神格化は間違いなく断片的な情報を基にして頭の中に創り上げられたものだろう。
しかしこの二人がハリウッドと日本の頂点であったことに間違いはなく、(誰が頂点であるかに関しては常に議論の的だけれど、この二人がそれぞれ頂点の最有力候補であり続けていることに異論を挟む者はいないだろう)、この意見を子どもの頃に植え付けてくれたのは有難かったと今では感謝している。
だって、例えば現在の若い父親が、「ガッキーが日本(史上)最高の女優だぞう!」とか教え込んだら、当然ながらその子どもの将来は危ぶまれることになりかねない。
まあ映画のことについても、ドラマのことについても、俳優のことについても、誰が何を好きになろうと勝手ではあるけれど、その「良し悪し、つまりクオリティ」を誰かと語る、ましてや公共のスペースに書き込んだりするのであれば、「最低限度の知識と鑑賞眼」を持っているべきなのだけれど、これは「どのくらいが最低限度か」ももっと吟味していこうと思う。
と言いますのも、昨今どんどん強まっているのが、「自分が理解できない作品は、たとえ批評家などが褒めていても駄作である」といった暴力的な考えの人たちが特にネットで増えているのである。
ネットで仲間内で、
「評論家の言うことなんか、当てにならないよね~~」とか、
「賞獲った映画なんか、おもしろくないものばかりだよね~~」とか、
こんなのがどんどん増えてきている印象ですな、統計をとったわけではないけれど。

もちろんネット書き込みの多くはノイジーマイノリティであって、その外側に遥かに多数の「世間一般」が存在するという構図も成り立つだろう。
しかし考えてみれば、わたしが10代の頃、周囲にちゃんと映画を観ている同年代の人間など滅多にいなかった。
もちろん、「高知」と「都市部」では文化状況はまったく違っているのだけれど、日本においてはもともと、あるいは少なくともテレビが各家庭に定着してからは、「映画をちゃんと観る」人はかなりの少数派だったとも言えるかもしれない。
まあわたしも若気の至りで10代の頃は、「映画ないし芸術方面に意識的な少数派」という自分について、スノビッシュな自己満足に浸っていたところもあった。
が、これからはそんな吞気なことは言ってられないのである。