●東野英治郎、ミヤコ蝶々、さらに山崎努と、あまりに分厚いキャスト『続 男はつらいよ』~田中絹代を「アメション女優」と誹謗した大炎上と、現在の炎上案件との違い。

末尾ルコ「映画と社会観察の話題で、知性と感性を鍛えるレッスン」

『続 男はつらいよ』には東野英治郎が出演していて、車寅次郎の「恩師」を演じている。
厚みのある存在感、厚みのある演技…こんな俳優、今はどこにも見当たらない。
そして寅次郎が探し求めた母親ミヤコ蝶々である。
見事なキャスティングであり、東野英治郎のエピソードにしても、ミヤコ蝶々のエピソードにしても、その演出は定番と言えば定番なのだが、山田洋次は(こうなるだろう)と思わせて、その通りになっても鑑賞者は十分以上にグッと来る力業を見せつける。
瞼の母(ミヤコ蝶々)はラブホテルの経営者であり、しかも強烈な関西弁でまくしたてる因業な女・・・のように見える。
感動の再会シーンは訪れず、二人は口論を始めるが、その直前の蝶々のふとした表情に、母性の強さと悲しさが籠っており、しかもこのラブホテルにはステンドグラスの窓があり、描かれているのは聖母子像なのだ。
さらにマドンナ役の佐藤オリエといつの間にか恋愛関係になってしまう意志の役が山崎努で、渥美清と山崎努が同じ画面の中にいるシーンは映画史的と言ってよく、その密度の濃さに嬉しくも悶えそうになる。
そして『続 男はつらいよ』の後半は涙腺を刺激するシーンも多いのだが、山田洋次は決して愁嘆場にしない。
観客の感情を刺激したすぐ後、多くは笑いが用意されている。
その配分の絶妙さときたら。

1949年(昭和24年)10月に日米親善使節として渡米した田中絹代が翌年1月帰国した時、その服装や態度によって大バッシングを受けてしまった「事件」についてはお話ししたが、この「大炎上」のマスヒステリアはとても分かりやすく、

「あまりに凄まじい人気があった女優が、多くの日本人がいまだ(当時)強烈な劣等感を抱いていた米国にかぶれてしまったと思い込み、とてつもなく失望した」

というところで、要するに「可愛さ余って、憎さ百倍」の心理に違いない。

それにしても一部メディアが「アメション女優」、つまり「アメリカで小便をしてきただけでかぶれてしまった」という意味だそうだが、このような表現で田中絹代を貶めたというエピソードはあまりに酷く、よくぞこんな言葉ができたものだと呆れてしまう。

「可愛さ余って、憎さ百倍」、さらに言い換えれば、「落ちた偶像バッシング」なのだけれど、これは近頃の芸能人炎上の中にはまず見当たらない。
例えばベッキーの不倫の件を見てみれば、もともと反感の多かった芸能人の不倫が発覚したために、(ここぞ!)とばかり大バッシングと化したのではないか。
薄く広く多くの番組へ出演していたベッキーに熱心なファンが多くいたとは考えられず、逆に(取り柄もないのにいつもテレビへ出てきて稼ぎやがって)と感じていた層がかなり分厚かったのだと思う。
まあ、そもそも今の日本に、昭和の大女優たちのように、「神のように崇められる存在」など存在するはずもないが。