●視聴率とは関係ないエロスで盛り上がっているらしい有村架純の『中学聖日記』~そしてネットに氾濫する出鱈目記事を「出鱈目だ」と認識する必要性。

末尾ルコ「テレビドラマと社会観察の話題で、知性と感性を鍛えるレッスン」

有村架純主演ドラマ『中学聖日記』の視聴率が5%台に突入したということだが、昨今すぐに「数字を持っている・持ってない」という表現を、ネットのライターや匿名書き込みなどで安易に使っているけれど、ほとんどが出鱈目な物言いに感じられる。
「ほとんど」とは、「すべてではないが、大部分」という意味だが、要するに、ほとんどが、「主演したドラマが高視聴率だったことのある俳優」を「数字を持っている」と言っているだけで、そこにいかなる合理的な分析などない場合が「ほとんど」だ。
「なぜ高視聴率・低視聴率だったか」という「理由」を解説する記事や書き込みもドラマ放送後山ほど出てくるけれど、それこそ「数字」を見てから、高かった番組の「よさげな部分」をいくつか取り上げるだけ、低かった番組の「悪げな部分」をいくつか取り上げるだけくらいのものである。
こうした記事の多くが噴飯物くらいならまだしも、作品や俳優の正当な評価を妨げる害毒になりかねない実情があると思うのですが。
例えば最近では、「有村架純や広瀬すずよりも、土屋太鳳の方が数字がある」とか、まあたいがいのサイトは毎日記事をアップしてPVを稼がねばならない作りになっているから、内容は出鱈目でも、有名人を貶めてアクセスを上げる手っ取り早い手法を取っているわけなのですな。
そもそも、「作品や俳優をしっかり評価する」という思考や行為自体がどんどん希薄となってきており、その代わりに子どもでも分かる「数字」を引き合いにして、あたかもそれが「評価のすべて」であるかのような雰囲気が優勢なのが今の日本でしょう。

もっとも有村架純『中学聖日記』の出来がいいとはとても言えないけれど、それはさて置き、次の記事がなかなかにウケた。

「下町ロケット」を超えた!有村架純「中学聖日記」の人気が突然爆発したワケ
https://www.asagei.com/excerpt/114802

同記事から抜粋すれば、

「3話の放送後にTBSがアップした予告動画は、あらゆるYouTube動画のアクセス数を抜き去り、ランキング第1位に輝きました。」
「艶っぽさのある衣装で、問題のある生徒を追いかけるシーンなども多く、豊かな胸をユッサユッサと揺らしている。」
「第3話でも『もうたまら~ん!こんな先生がいたら好きになっちゃうよ!ギンギンだ!』『すげぇ!こんなにデカかったんだ。次は録画しよう』『この胸の感じは男の理想だ!』と悶絶する感想で溢れています。」
    (いずれも、『Asagei plus』より)

いずれの文章も、わたしなら使わない表現満載で愉しくなるのだが、こういう見地(笑)も映画やテレビドラマを正当な鑑賞法の一つ(すべてではない 笑)である。
そうです、設定を見ただけで「気持ち悪い」と拒否反応を起こす人たちより精神がずっと健康的。
しかしこのドラマで初めて有村架純のそうした魅力に気づくようでは「鈍くさい」のそしりは免れない・・・かもしれない。