●『新 男はつらいよ』マドンナ栗原小巻と「正統派」という魅惑的言葉はプロレスへも繋がる。

末尾ルコ「映画とプロレスの話題で、知性と感性を鍛えるレッスン」

『新・男はつらいよ』は栗原小巻がヒロイン、『男はつらいよ 柴又慕情』は吉永小百合がヒロイン。
吉永小百合が日本映画史を代表する正統派美人女優というのは言うまでもなく、栗原小巻についてわたしは多くを知らないが、その容姿は間違いなく正統派美人である。
「正統派」
何と魅惑的な言葉であり概念だろうか。
世の中に幾多のジャンルはあるけれど、「正統派」という言葉の魅惑には抗いがたいものがある。
プロレスにしてもそう。
わたしは子どもの頃、ボボ・ブラジル、フリッツ・フォン・エリック、アブドーラ・ザ・ブッチャー、ザ・シーク、デイック・ザ・ブルーザーらに憧れた、主にプロレス本の写真によってだけれど。
彼らの多くはラフファイターと呼ばれ、殴る蹴る、時に、あるいは頻繁に反則技も繰り出し、観客を興奮させる役割を担っていた。
こうした当時のヒール(悪役)の存在は、「人は何を期待して、わざわざお金を出してプロレスを観に来ていたのか」という点を考える上で、もっと思考を深めるべきだろう。

しかしわたしが、そして多くのプロレスファンが彼らヒールを愉しめたのも、「プロレスの中心」に正統派レスラーたちがいるというイメージを持っていたためだった。
そう、多様なタイプのレスラーたちがプロレス界を盛り上げていても、行きつくところは「正統派」だったのである、多くのファンの意識の中では。

それは俳優たちも同様であって、女優の場合の「正統派」とは、「色気を前面に出さない」というのが大きなポイントであるし、意外にも、「正統派」と「演技派」は必ずしも一致しない。
日本ではどちらかと言えば、「清純派」という言葉が「正統派」に近いのである。
しかしそれは必ずしも日本だけでなく、かつてのハリウッドでもかなりの映画女優が「清純派」を期待され、それが「正統派」というイメージと重なっていた。
例を挙げれば、
イングリッド・バーグマン
ジョーン・フォンテイン
グレース・ケリー

などである。
特にイングリッド・バーグマンが『聖メリーの鐘』で修道女を演じ、そのあまりの美しさ、清純さに米国人はノックアウトされたのだが、後に夫がありながらイタリアの巨匠ロベルト・ロッセリーニ監督のもとへ走り、米国議会でも問題にされるほどの大スキャンダルとなったのは、歴史的事件と言ってもいい。
このスキャンダルによりバーグマンは一時、可愛さ余って憎さ100倍のセオリー通り、米国人の憎しみを買ったのであった。

『新・男はつらいよ』は栗原小巻の出番はさほど多くはなく、前半は寅次郎が競馬で当て、気前よく「おいちゃん夫婦」をハワイ旅行へ連れて行く段取りをするが、旅行代理店社長が金を持ってトンズラ、大々的に壮行式を挙行した寅次郎らは引っ込みがつかなくなり、ハワイへ行ったことにして家の中に立て籠もるが、そこへ泥棒が闖入してきて・・・。
というナンセンススラップスティックな展開が抜群の可笑しさで展開される。