●真の教育~自分自身の中で自分なりのルールを設け、「使う言葉・使わない言葉」をしっかりと峻別する。~で、わたしが「がっつり」という言葉を使わない理由。

末尾ルコ「言葉と教育の話題で、知性と感性を鍛えるレッスン」

この前、川上弘美の短編「小屋のある屋上」の中で使われていた「こっくり」という言葉についてのお話をしたが、自分にとって未知だった言葉を覚えた場合、すぐにどんどん使えばいい言葉がほとんどだけれど、例えば、「ポスト構造主義」なんていう言葉を覚えたてですぐ使っているような人も昔はいたが、かなり恥ずかしい言葉の使い方だった。
今では別の意味で「ポスト構造主義」という言葉が恥ずかしいかもしれない。
それと言葉に対する感覚は人それぞれであることも事実なのだけれど、自分自身の中で自分なりのルールを設け、「使う言葉・使わない言葉」をしっかりと峻別している人たちの言葉づかいは信頼感を持てる場合が多い。
言葉を何でもかんでも適当に使っている人って、すぐに分かるんです。

ここで、「教育」のお話となります。

既成の学校教育は容易には変わりませんが、家庭教育、あるいは「自分主導で行う社会の中の教育」は今すぐに変えられます。
「言葉」が「教育の根源」であることは説明の必要もないでしょうが、それはつまり、「自分が、話し言葉にせよ書き言葉にせよ」、「言葉を意識的に、しっかり使う」ことで早くも教育効果は発動しているのです。
本当ですよ。

というわけで、

・自分自身の中で自分なりのルールを設け、「使う言葉・使わない言葉」をしっかりと峻別する。

家庭教育として早い段階でお子様にも理解していただくことも重要です。
ただ、杓子定規ではいけない。
「同じ言葉でも、使う人、使うシチュエーションでまったく異なる効果となる」のが言葉というものであり、簡単な言葉を使えば、

「いかにより的確なアドリブ力を身につけるか」

ということを究極の目的にしなければならないのです。

で、ここで、自分自身の中で自分なりのルールを設け、「使う言葉・使わない言葉」をしっかりと峻別する例として、

「わたしが普段使わない言葉」を一つご紹介しましょう。
別にわたしが使わない言葉を万人に適用しようということではなく、一つの例として見ていただけたらと思います。

「がっつり」

これ、やたらと使われてますよね。
基本的に、「がっつり食べる」という使い方ですが、いかにも(今、みんなが使っているから)という雰囲気で使われるのが常です。
わたしはそのような雰囲気の中にいたくないので使わないし、語感も好きではありません。
そして「皆が同じ状況で同じ言葉を使う」という状況は、
「国民の言語能力をどんどん落とす」

これ、間違いありません。
「褒め言葉」としての「ヤバい」の濫用がその典型です。

別に「がっつり」を使うのを「悪い」とは言っておりませんよ。
しかし、つい「がっつり」と口に出そうなときにグッと堪え、次のような言葉に変えてみることをお薦めします。

「たっぷり」
「十分」
さらに、わたしの好きな言葉として、
「しこたま」
「たらふく」を挙げましょう。

こりゃ、いい言葉だ!