●「言葉の選択」で「人間」が見える~指原莉乃の対応を「神がかった」と書いた『オリコン』の愚かさ。

末尾ルコ「言葉の選択の話題で、知性と感性を磨くレッスン」

「言葉の選択」・・・つまり日常会話の中でも、「どのような言葉を選択しているか」によって、その人のクオリティのかなりの部分は類推できるものなのだけれど、例えば昨今は、「文章を書いて、お金を貰っているプロのはずの人たち」の中にも無様な言葉遣いが普通に見られる。
次の記事など、その典型的なものの一つだ。

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NGT48も松本人志も救う? “地獄見た”指原莉乃の神がかった対応力
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190120-00000304-oric-ent

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これは『オリコン』の記事だから、一応メジャーなメディアであるけれど、ほとんどの記事は、「売れているものをヨイショするだけ」です。
その前提は分かっていても、前記記事の内容は酷いし、特にこの「神がかった」って。
この記事の内容は、某番組で松本人志の口から出た「セクハラ発言」を指原莉乃が「ブ年に収めた」ことを誉めそやし、返す刀で指原莉乃の「対応力」とやらをヨイショしまくっている。
わたしはなんでもかんでもセクハラに結びつける過度なフェミニズム的思考・言動には賛成しないけれど、現に多くの人々を苦しめているセクハラを容認するつもりもまったくない。
今回の松本人志に対する指原莉乃の「無難に収める」パターンを「よし」とするのであれば、社会の津々浦々でセクハラを受ける女性に「泣き寝入りせよ」というメッセージを送っているに近い。

といった「記事内容」のお粗末さもさることながら、この内容に「神がかった」という言葉を使う感覚ときたら、最早「おぞましい」段階に達している。
そう、同記事を執筆したライターは、「おぞましい言葉づかいができる」を売り物にすべきなのである。
それにしても、「神がかった」とは恐れ入る。
もし本気でそう思い、この言葉づかいが真っ当だと信じているのであれば、ぜひ小学1年生から国語の授業を受け直していただきたいですな。
もっとも、現在の学校教育でどれだけしっかりした国語が成されているかは大いに疑問ではあるが。

そもそもここ10年くらいか、「神」という言葉がものの見事に無価値化されているのが我が国なのだけれど、そう言えば、新日本プロレスの内藤哲也が試合後のマイクアピールで、「神ってる」という言葉を声高に使ったことがある。
この時点でわたしの中で内藤哲也の言語感覚は大減点であるし、まがりなりにも現在のプロレス界の第一人者が、

「新語・流行語大賞ごときに使われてどうする」

というところである。

プロレスラーは、「世の中の風潮」などにはことごとく反撥すべし!

・・・今のレスラーたちには無理か。