●流行語だった「反知性」という言葉が見あらなくなった理由は?~プロレスに、アイドルに、「何を観ているのか」を考える時間が必要。

末尾ルコ「社会観察で、知性と感性を磨くレッスン」

そう言えば数年前になるでしょうか。
「反知性」という言葉が流行りましたね。
わたしもブログなどで「反知性」、何度となく使いました。
ただ日本では「反知性主義」という言葉は決して本来の意味で使われていなかった感はありますし、わたしもリチャード・ホフスタッターが『アメリカの反知性主義』で示したような意味では使ったことなかったです。
と言いますか、そもそもわたし、『アメリカの反知性主義』、読んでませんしね。
ただ、「反知性」という言葉は、現代の日本、だけでなく、世界的に蔓延している思考停止が常態化した雰囲気を表すのにうってつけだとは感じたていたのだが。

それはさて置き、「反知性」という言葉がアッという間に広がり、アッという間にほとんど見かけなくなったのは、わたしの観察では次のような展開になったからだと思うのです。
つまり、

「右も左も安易なポジショントークの一つとして〈反知性〉という言葉を使いまくった挙句、アッという間に陳腐化した」

という展開が大きかった。
もちろん理由はこれだけではないでしょうが、例えば次のような感じの言語空間が一気に広がったわけです。

Å「そんなこと言うお前は反知性そのものだ」
B「そんなことで反知性とか言うお前こそ反知性だ」
A「反知性と言われたことで人を反知性と言うお前がまさに反知性そのものだ」
・・・と、延々と不毛なやり取りが続けられるようになり、その過程で最早「反知性」という言葉は何の意味も持たず、陳腐化してしまったのですね。
しかしこのような言葉の陳腐化は、「反知性」でなくても、現代日本において、とても多いですよ、気をつけましょう。

さて、突如プロレスの話題となるが、わたしの一つ大きな興味は、
「今のプロレスファンは何を観ているのか?」
「昭和のプロレスファンは何を観ていたのか?」
そして、
「わたしはプロレスに何を観ていたのか?」

しかしこれはプロレスに限らず、特に「周縁的ジャンル」では常に熟考されるべき命題ではないだろうか。
シンプルなプロスポーツを観戦するのであれば、「勝敗を争う姿を観る」「勝つために磨き上げた身体や技を観る」などなど、「見ているもの」もよりシンプルである。
まあ本当は「シンプルなスポーツ」であっても、もっと複雑な精神的働きが絡み合っているのだけれど、今回はそこまでは追究しない。
要するに、「プロレス」は「勝敗」を売り物にしているわけではないし、「(ほとんどの)アイドル」は、決して高度な「歌」「ダンス」あるいは、「演技」を売り物にしているわけではないだけに、「何を観ているか」曖昧なまま人生がただ進んでいくことも多いだろう。
あるいは、「ゆるキャラ」に対する気持ちなども同じことかもしれない。