●『天国の駅』の吉永小百合は、敢えて「感じてない」マスターベーションシーンを演じたのか?~あるいは、性的快感と言葉の関係。

末尾ルコ「映画とエロティシズムの話題で、知性と感性を磨くレッスン」

前回、「吉永小百合のマスターベーションシーン」がある映画『天国の駅』についてお話したけれど、エロティックか否かという観点からすれば、わたしは「エロティックではなかった」と答えざるを得ない。
しかし、「エロティックと感じるか否か」も大いに個人差があるもので、その点は食べ物の好みと「同じ」ではないけれど、「共通点」はある。
例えば、和服を着た女性をエロティックだと感じる人もおれば、洋服にしかエロスを感じない人もいる。
わたしは、「洋服にしか」というほどではないが、ほぼ100%洋服好きである。
まったく理解できない組み合わせが、以前成人誌などのグラビアでよく見かけた、「和服+刺青」というもの。
今はどうか知らないけれど、かつて成人誌(エロ本含む)に目を通していた頃は(ああいうのは、若い頃見たくなるものでしょう 笑)、けっこうレギュラー的に「和服+刺青」女性のヌード写真を見かけたものだから、当然ながら需要があったわけである。
わたしの感覚では、自然な肌の上に人工的な画や色彩を施している方がいい・・・というのが理解し難いのだけれど、この辺は嗜好の問題もあるし、今回は深く追究はしない。

『天国の駅』の吉永小百合のオナニーシーンが「エロティックではない」と書いたけれど、「嗜好」という観点から見れば、「あれは、最高にエロだよ!興奮した!!」という声もきっとあるのだろう。
そうしたことも踏まえ、「自説(持説)」を述べて、それがどれだけ普遍性を持てるか・・・というのが、「自説(持説)を唱える意義」であるし、あるいは、「これはエッセイだから」と文学的表現を志向する方法もある。

で(笑)、『天国の駅』の吉永小百合なのだけれど、なぜエロティックでなかったかと言えば、一番の理由は、

「感じているように見えなかった」からである。

特にマスターベーションシーンであれば、エロティックになるか否かは、感じているように見えるか否かに大きくかかっている。
『天国の駅』の吉永小百合の場合は、「感じる演技ができない」というわけではないと思う。
想像に過ぎないのだが、やはり「本当に感じているように見せてはならない」という規制がかかってしまっているのではないか。

ところで映画から少し離れるが、人間が「エロスを感じる」感覚は多様なもので、視覚、触覚、聴覚など、様々な刺激が性的快感をもたらすものだ。
例えば、「特定の言葉」によってもたらされる性的快感もあり、今回は言及しないが、わたしにもいくつとなくそんな言葉が存在する。
だから言葉というもの、よりデリケートにデリケートに使用する必要があるのだけれど、ではここで「マスターベーション」と同じ意味を持つ言葉を敢えて(笑)並べてみよう。
男性のみに適用される語は省いている。

オナニー
自慰
手淫
万摺