●『男はつらいよ 寅次郎純情詩集』の倍賞千恵子があまりに凄いので、この際、映像演技と舞台演技の違いについてプチエッセイにしてみた次第。

末尾ルコ「映画の話題で、知性と感性を磨くレッスン」

映画、テレビドラマ、演劇が反目し合う必要はないけれど、バランスというものが大切だと思うんですね。
何のバランスかと言うと、話は長くなるけれど、ま、例えば、「舞台俳優のトップこそ俳優の中のトップだ」と信じている舞台関係者や舞台ファンも多いのだけれど、そして舞台俳優の技量には大いなるリスペクトをわたしも置いているけれど、現実的には、「舞台俳優のトップは、舞台俳優の中のトップ」だと思う。
もちろん映像でも舞台でも素晴らしい実績を残している俳優も多くいるけれど、その演技の本質は大きく異なっており、「どちらが上」などと単純には語れない。
もちろん、舞台の演技は修練を積んでなければできるものではなく、映像の方は時に素人ばかりが出演しても傑作となる場合もある。
わたしの知っているその手法の最高の作品は、ぴエル・パオロ・パゾリーニ監督の映画『奇跡の丘』である。
映像だとこういうことができる。
だから、映像が舞台より優れていることにはならないし、舞台が映像より優れていることにはならない。
要するに映像と舞台は、重なる部分はあっても、大きく異なるジャンルなのだ。

「映像向けの演技」というものがあって、それを舞台でやったら、「大根」と言われるだろうが、「舞台演技」の多くも、映画監督には疎まれる要素となっている。
「映画は監督のもの・舞台は役者のもの」とも言われるように、映像の中では出演者は何もしなくても、監督の腕次第で「素晴らしいシーン」はいくらでもできるのだ。
かつて坂本龍一がベルナルド・ベルトルッチ監督の『ラスト・エンペラー』で甘粕大尉を演じたが、そのことについて何かのインタヴューで、「演技といっても、立っているだけだから」といった意味の発言をしているが、謙遜なども含まれているだろうけれど、演技素人の坂本龍一の本音だろう。
それでもあの悪魔性を帯びた甘粕大尉を造形できるのが映画というものだ。

などといったことを書いているのは、最近「若手俳優たちが舞台を好む傾向にある」旨の記事を読み、その内容がいささか浅薄で納得できない部分が多々あったこともあるし、『男はつらいよ 寅次郎純情詩集』の渥美清、そして倍賞千恵子の「映像演技」があまりに素晴らしかったことも大きい。
映画の中で俳優が過剰な大芝居をするのも時に愉しいけれど、「映像演技」の大本は、何も語らずとも複雑な心情を表現し、観客の心を揺さぶる境地である。

もちろんそこには、「監督とカメラマンの力量」が必要になるのだけれど。