●PCがフリーズすることもあるので、「とても重いサイト(ブログ含む)」の訪問は容易にできない件~「号泣・絶叫シーン」にまんまと感情を操られる人たちが多数の社会の危険性。
末尾ルコ「社会批評の話題で、知性と感性を磨くレッスン」
大手メディアが運営しているサイトにしても、個人が運営しているサイトにしてもですね、やたら重いところがありますね。
すぐには開けない(表示されない)どころか、何分、そして10分超えても開けない・・・で、わたしは低スペックのPCも使っているから、フリーズしちゃうこともあるんです、重いサイトにアクセスしようとした場合。
フリーズした場合は普通強制終了して、もう一度立ち上げますが、その過程で「書きかけの文章が消えてしまう」ことも少なからずあるのです。
まあそれはわたしのPCの問題、わたしの文章保存体制の不備の問題もあるけれど、フリーズの直接的原因が、「とても重いサイト」にあることも事実です。
フリーズしないまでも、作業は一定時間中断してしまいます。
なのでわたしは、「少々重い」くらいであればまだしも、「極めて重い」と感じたサイト(ブログ含む)には滅多なことでは再訪しません。
「極めて重い」大きな原因は「多くの広告を貼っていること」である場合がほとんどだと思いますが、人に「訪問を期待する」のであれば、この辺りは気をつけてほしいものです。
これはいわば、「ぜひ我が家へお出でください」と言われたので行ってみたら鋼鉄の分厚い門があって、それが押しても引いてもびくともしないと・・・そんな状態に近いですから。
・・・
「感動」とか「感涙」とかいう問題なのですが、こういうのもやはり子どもの頃からの積み重ねは大きいのだと思います。
「感動」「感涙」、大いにけっこうなのです。
この部分を否定しているわけではないのです。
わたしももちろん「感動」を求め、映画、文学、音楽、あるいはバレエなどを鑑賞するのだけれど、別に偉そうにするわけじゃないですよ、しかしどうしてもそこは、「求める感動の質が違う」と言わざるを得ないのです。
昨今の多くの日本映画、あるいは時に小説は、
「ここで泣かせてやろう」
という作り手側の意図が見え見えのシーンがあるわけですが、こうしたもので
「容易に泣いてしまう人たち」とはつまり、
企業、あるいは政治家、そして扇動者、プロパガンダなどに、
「容易に感情を操られる人たち」と
かなり重なると思うのです。
企業、あるいは政治家、そして扇動者、プロパガンダなどに、まんまと感情を操られる人たちの多い社会は、
「とても危険な社会」ですよね。
「とても危険な社会」では暮らしたくないですよね、普通は。
「号泣・絶叫シーン」大好きな人たちが増殖していることに対する懸念、よりシンプルな言葉を使えば、「気色悪い、いや~な感じ」にはそのような想いがあるのですが、それ以前に、
「かつて世界でもトップクラスのレベルを誇った日本映画あるいはテレビドラマなど映像文化がどんどん劣化していくのを看過していられない」のですね。
末尾ルコ「社会批評の話題で、知性と感性を磨くレッスン」
大手メディアが運営しているサイトにしても、個人が運営しているサイトにしてもですね、やたら重いところがありますね。
すぐには開けない(表示されない)どころか、何分、そして10分超えても開けない・・・で、わたしは低スペックのPCも使っているから、フリーズしちゃうこともあるんです、重いサイトにアクセスしようとした場合。
フリーズした場合は普通強制終了して、もう一度立ち上げますが、その過程で「書きかけの文章が消えてしまう」ことも少なからずあるのです。
まあそれはわたしのPCの問題、わたしの文章保存体制の不備の問題もあるけれど、フリーズの直接的原因が、「とても重いサイト」にあることも事実です。
フリーズしないまでも、作業は一定時間中断してしまいます。
なのでわたしは、「少々重い」くらいであればまだしも、「極めて重い」と感じたサイト(ブログ含む)には滅多なことでは再訪しません。
「極めて重い」大きな原因は「多くの広告を貼っていること」である場合がほとんどだと思いますが、人に「訪問を期待する」のであれば、この辺りは気をつけてほしいものです。
これはいわば、「ぜひ我が家へお出でください」と言われたので行ってみたら鋼鉄の分厚い門があって、それが押しても引いてもびくともしないと・・・そんな状態に近いですから。
・・・
「感動」とか「感涙」とかいう問題なのですが、こういうのもやはり子どもの頃からの積み重ねは大きいのだと思います。
「感動」「感涙」、大いにけっこうなのです。
この部分を否定しているわけではないのです。
わたしももちろん「感動」を求め、映画、文学、音楽、あるいはバレエなどを鑑賞するのだけれど、別に偉そうにするわけじゃないですよ、しかしどうしてもそこは、「求める感動の質が違う」と言わざるを得ないのです。
昨今の多くの日本映画、あるいは時に小説は、
「ここで泣かせてやろう」
という作り手側の意図が見え見えのシーンがあるわけですが、こうしたもので
「容易に泣いてしまう人たち」とはつまり、
企業、あるいは政治家、そして扇動者、プロパガンダなどに、
「容易に感情を操られる人たち」と
かなり重なると思うのです。
企業、あるいは政治家、そして扇動者、プロパガンダなどに、まんまと感情を操られる人たちの多い社会は、
「とても危険な社会」ですよね。
「とても危険な社会」では暮らしたくないですよね、普通は。
「号泣・絶叫シーン」大好きな人たちが増殖していることに対する懸念、よりシンプルな言葉を使えば、「気色悪い、いや~な感じ」にはそのような想いがあるのですが、それ以前に、
「かつて世界でもトップクラスのレベルを誇った日本映画あるいはテレビドラマなど映像文化がどんどん劣化していくのを看過していられない」のですね。