●我が母、心臓バイパス手術後闘病記91日目~そろそろ大転子部不全骨折の総合的検査、気になる血栓の有無は?~林寛子についての個人的印象エッセイ。

末尾ルコ「母の話、健康医療の話題、日本芸能史の話題」

6月18日(火)手術後91日目
転院56日目

母は大転子部不全骨折以来、受傷部のレントゲンは2度(受傷直後を含めると3度)撮っていて、次の検査はレントゲンだけでなく、MRIなども含み、さらに静脈に血栓ができてないかのチェックなど総合的なものになるという。
骨癒合がどれだけ進んでいるかが一番の問題であるのはもちろんのこと、血栓の有無も今後の療養上大きな意味を持つ。
静脈の血栓が飛ぶと、脳梗塞や心筋梗塞など重大な症状を引き起こす可能性があり、短といは「もしできていたら薬で血栓を溶かします」と言っていたが、できてないに越したことはない。

この「脚の静脈に血栓ができて飛ぶ」症状は担当医の説明では、「エコノミー症候群のようなもの」ということだった。
この3週間強、予防のために弾性ストッキングを着用し、1日何百回も足首の運動をしてきたわけだが、どのような状態になっているだろう。

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林寛子とは何者だったのか。
存命のまだ若い林寛子に過去形はないものだけれど、アイドルとしての林寛子はとうの昔にもういない。
そしてわたしの子ども時代を振り返ると、わたしにとって最も魅力的に映ったアイドルは林寛子に他ならないのだ。
林寛子は1959年10月16日に生まれている。

わたしが林寛子を認識したのはどちらが先だろう。
特撮ドラマ『変身忍者 嵐』か、それとも『カモン・ベイビー』という歌か。
と、このような記憶だったのだが、この度調べて驚いた。
『変身忍者 嵐』の放送が1972年、『カモン・ベイビー』のリリースが1976年とあり、それでは『カモン・ベイビー』で林寛子を始めて認識したということはあり得ない。
1976年と言えば、モハメッド・アリVSアントニオ猪木の都市ではないか。
わたしの中では『カモン・ベイビー』はアリVS猪木よりもずっと前であり続けていた。
そして当時の歌謡曲の中で他のどのような歌よりも鮮やかに記憶している『カモン・ベイビー』は、オリコンチャート最高位が51位に留まっているに過ぎないのである。

確かに思えば『変身忍者 嵐』の頃は子ども子どもしていたが、『カモン・ベイビー』となると大人の女性の体のラインができつつあった。
それはわたしにとって実に魅惑的な景色だったのだ。
連続ドラマ『がんばれ!レッドビッキーズ』や『透明ドリちゃん』が1978年というのも驚きである。
『がんばれ!レッドビッキーズ』のことは知っていて観たいと思っていたのだが、観た記憶はない。
高知ではやってなかったのか。
そして林寛子の数少ない出演映画を眺めてみると、1972年に『変身忍者 嵐』がある。
こういうのはBSあたりで放送してくれれば必ず観るのだが。
『恋の空中ぶらんこ』が、これまたアリVS猪木と同じ1976年。
作品の存在は知っていたが、観た記憶はない。
こちらもいささか観てみたい。
さらに林寛子は1979年に『男はつらいよ 寅次郎春の夢』へも出演しているではないか。
もちろんマドンナではあり得ないが。

林寛子とは何者だったのか?
彼女についてのわたしの探究は、今後も続く、かどうかは分からない。