現代に入り、多くの日本人がいびつなメンタリティを持つようになった大きな理由の一つがマスメディア、特にテレビだと考えている。
一つ一つの出来事は小さいかもしれないが、それを看過し続けることによって、影響は徐々に大きくなってきたのだと思う。
この吉高由里子の件一つとっても、「吉高由里子」のことについて考えながら様々なことが見えてくる。

さて西野亮廣(キングコング)の中で吉高由里子が「どついてもいい人間」に入ったのだとしたら、それはどうしてか?
もちろん西野亮廣自身の「人を区別する」という「性格」によるものだというのが第一だ。
ここで書いておかねばならないが、「人を区別する」というのは普通誰しもやっている。
個人の中で「他人を皆平等に見ることができる」というのは聖人なみの人間性を持っていないと無理だろう。
問題は「何を持って人を区別しているか」と「区別を何らかの態度に表すのかどうか」という点だと思う。
(まあこのような分類もケースバイケースであるのだが)

さて西野亮廣はまず自分の区別を行動に表した。
しかもテレビという公共の電波上で、である。

ここでもう一つ考えたいのは、「どつく」という行為の持つ意味だ。