●「不幸な歌が大好き#59021;」市川由紀乃と「精神的危機」の話から、日本人の「お涙頂戴」指向と「一杯のかけそば」ブーム。

末尾ルコ「音楽と社会批評の話題で知性と感性を鍛えるレッスン」

市川由紀乃の趣味が「妄想」であることは、市川由紀乃本人がテレビ放送の中でも何度となく言っており、しかも6月27日放送の『うたコン』では、「不幸な歌が大好き#59021;」なんていうテロップが出ていた。
おもしろい人だ。
しかしこの、どこか開き直ったような、突っ切ったようないささかパンクな感覚は、市川由紀乃がかつて「長期休養」などの精神的危機を経験しているからこそ出ているものなのだと、とてもよく理解できる。
わたしもかつては深刻で、あまりに深刻で、しかもとても長い精神の危機に見舞われたことがあり、その泥沼の中にいる時は耐えがたい苦痛だったが、今となっては、「その時期があったからこそ」今の自分が存在するのだと確信している。
「耐え難い苦しみ」を経てしか見えてこない景色というものが存在するのだ。

ところで多くの日本人には伝統的に「お涙頂戴が好き」という傾向があり、もちろん映画でも小説でも「涙を誘う」作品でクオリティの高いものは多く存在するけれど、現在はあまりに安易な「お涙頂戴」が作られ過ぎており、それを好きな人たちとの悪しき相乗効果で、日本人の感性レベルの低下そして弛緩が止めどなく進んでいる状態なのだと、わたしは捉えている。
例えば近年の日本映画の予告編。
極めて高い確率で、登場人物が号泣するシーンが挿入される。
「号泣シーン」なんていうのは、よほどしっかりした脚本でなければ、俳優としては「恥ずかしい」と感じるべきなのだが。

そう言えば、1989年には「一杯のかけそば」大ブームというのがあって、それはちょっと今からは信じ難いほどのブームだったのだが、「作者を含め、いろいろなことがおかしい」と指摘されるようになって、一気にブームは終息した。
「一杯のかけそば」大ブームは、昭和に起こった、「一大お涙頂戴事件」とも言えるものだったが、考えてみれば、本当に物語がよければ、作者がどうであろうが、物語自体は残るはずなのだが。