●「男も泣いていい」という風潮に反撥か?灼熱の夏、自らの「命懸けの美意識」についてあらためて考える。

末尾ルコ「まさしく命懸けの美意識に関する話題で知性と感性を鍛えるレッスン」

そしてあまりの熱気に、アスファルトの道路を歩いていても、そこがいつもの道路とはまったく異なる様相を呈しているのである。
四方八方から白色の灼熱に攻撃され、目の前のローソンに辿り着くまでどうやら逃げ場はない。
瞬間的に視界は猛烈な光源を含んだ白色に包まれたり、何もかもがぐにゃりと歪んでいるようにも見える。
(なぜこんな目に遭わねばならないのだ・・・)
ローソンはまだ遠く、いや実際はもう10メートル以内になっているはずなのだが、はるか向こうに見える。
(う、くくく・・・)
どうしたことか!
わたしの目頭に涙がこみあげてきているではないか、激しくないにせよ。
(何だ?どうした、俺?こんな暑さくらいで涙を出すと言うのか?泣くな、俺!頑張れ、俺れれれ!!!)
そう。
もちろん「男だって、泣いてもいい」。
しかし男にせよ女にせよ、大人はできるだけ泣かない方がいい。
「男だって、泣いていい」というのはそもそも当たり前の話であって、しかし日本の場合はどのようなことでも「社会的に承認された」と見做されるや否や、堰を切ったように大多数がそちらへ流れて行ってしまう不気味な嫌ったらしさがある。
さすがに今のところ、公共の場でビービー泣いている男を見かけたことはないが、日本映画の予告編には「泣き男」がしょっちゅう現れる。
しかし原則としては次のようであらねばならないとわたしは考えている。

男も女も「弱くてもいい」が、
「強い方がもっといい」し、
「弱い部分は強くしていく努力をする」べきであり、当然ながら、「強さ」には「豊かな人間性」が伴うべきである、と。

「弱くていい」ということになったら、(なんだ、そうなんだ)とみんなそっちの方向へ進んだり、一事が万事そうなってしまうのが気色悪いのですな。

ちなみにわたしももちろん「弱い部分」がとても多い人間だけれど、常に「強くなるべく努力」をしているし、基本的に「弱さを人に見せる」ことはしない。
そしてどんな場であっても絶対に羽目を外さない。
それらはわたしが人生を送っていく上で、絶対に外すことのできない、「命懸けの美意識」なのである。