●アントニオ猪木ブロンズ像、あるいは村松友視の「ザ・シーク」論、そして芸術との関連とは?

末尾ルコ「芸術とプロレスの話題で、知性と感性を鍛えるレッスン」

かつて大槻ケンヂは、「女性の部屋を訪ねたら、アントニオ猪木ブロンズ像が置いてあった」というエピソードをネタの一つにしていた。
わたしは猪木ファンであったが、プロレス誌の通販案内ページでいつも見かける猪木ブロンズ像を眺めながら、「欲しい」と思ったことは一度もない。
しかし今更確認するまでもなく、アントニオ猪木は日本プロレス史上最も「絵(画)になる」レスラーだった。
それは猪木をモデルとした仁王像が造られたことでもよく分かる。
猪木は身体バランスにおいてもおそらく日本プロレス史上最高であり、さらにリング上の感情表現においても他の追随を許さない。

かつて村松友視はザ・シークを評して、「とても絵になるけれど、絵になり過ぎて現実のレスラーとしてはどうかという面もある」という意味のことを書いていた。
確かにザ・シークが動く姿は、その凶器攻撃や怪火発生などが目立つけれど、肉体の動きに際立ったものはない。
観客の心理を読みながらの試合運びはさすが思わせるけれど。

「絵(画)になる」、映画俳優であれば、「アップに耐える」・・・わたしはこれらクオリティを常に重視している。
スポーツやプロレスにおいて「絵(画)になる」というのは、「動いている状態で絵(画)になる」のと「静止画(写真)で絵(画)になる」の2通りあって、双方兼ね備えているプロレスラーがより優秀なのは言うまでもない。

「静止画(写真)で絵(画)になる」ことはおそらく現在よりも「かつて」の方がより重要だったに違いない。
現在のように掌の中ですぐに動画にアクセスできる状況はもちろんなくて、ほとんどのプロレスファンは「テレビでレスラーの動く姿」を観る僅かな時間以外は、プロレス誌などに掲載される「静止画(写真)」を長い時間眺めて「想像する」というのがプロレスに対する正しい向かい合い方だった。

「絵(画)になる」・・・以前猪木はよく「格闘芸術」という言葉を使っていた。
それはMMA(総合格闘技)が人気を博し、定着してきた時期に「プロレスをどう位置づけるか」という問題に対して猪木が見つけた方法の一つだったのだろう。
あるいは、WWEのようなプロレスを「スポーツ芸術」などと呼ぶ者もいる。
しかしあれが芸術では、芸術が泣くだろう。
プロレスに芸術性を見出そうとするのなら、「芸術とは何か」というところから入らねばならない。
もちそん「総てが芸術である」という考えも成り立たなくもないが、自ずと「段階」というものが存在する。