●ザ・デストロイヤーの流血、アントニオ猪木の流血、そして色彩論へと。

末尾ルコ「プロレスの話題で、知性と感性を鍛えるレッスン」

ザ・デストロイヤーに関しては、日本テレビのスペシャル番組で特集が組まれていたことを覚えている。
1時間半か2時間枠の番組で、その中で和田アキ子が、「プロレス中継のデストロイヤーを観ていると、こんな凄い人を番組でどついたりしているんだと思う」的な談話を述べていた。
わたしが『全日本プロレス中継』を観始めたのと、このザ・デストロイヤー特集番組を観たのと、どちらが先だったかは覚えてない。

ふと考える。
現在わたしが小学生だったとして、プロレスファンになるだろうか?
そもそも現在であれば、「小学生」がまず「プロレスを知る」ルートにはどのようなものがあるのか?
よしんば「プロレスの存在」を知ったとして、わたしが「原則流血禁止」の新日本プロレスの試合に夢中になるだろうか?
なぜならばプロレステレビ観戦初期段階のわたしを夢中にした最も重大な要素は間違いなく、「流血試合」だったから。

初めて流血試合を観た感覚というのは、「あってはならないこと・見てはならない事態」を見てしまった背徳感を伴った快感だった。
(こんな世界があるのか)・・・しかし背徳も何も、それは夜8時というメインの時間帯に堂々と放送されていたのだが。

そしてそもそもザ・デストロイヤーが「白覆面」だったことに大きな意味があった。
「白」以外のマスクでどうして「流血」が映えるだろう。
「濃い色のマスク」を着用したレスラーが流血したところで、まったく映えない。
ミル・マスカラスやマスクド・スーパースター、ストロング・マシン、獣神サンダーライガーなど、「流血するだけ無駄」である。
その意味では「流血」は、黒人に生じても大きな効果を生まない。
これはもちろん「差別発言」ではなく、一種の「色彩論」である。
「黒に赤は合わせられない」どころか「黒の上の赤は見えない場合もある」・・・だから別に黒人でなくとも、日に焼けた白人や黄色人種であっても、「流血」は効果を発揮しないとなる。

「流血」に関しての一般論だが、当然ながら健康上はかなりリスクを伴うプロレススタイルであり、あらゆることがまだ曖昧模糊として霧に包まれていた昭和プロレスならではの方法論だったのかもしれない。


日本人レスラーで「流血が最も似合う」となれば、やはりアントニオ猪木に軍配を上げたい。
全盛期のアントニオ猪木。
ウエーブのかかった黒髪と、彫りが深いわけではないがはっきりした顔だち、そして比較的白く滑らかな肌質・・・そんな猪木の額が割れ、鮮血が滴る時、他では見ることのできない凄愴美が出現した。