●声もなかなか出ない?田村正和『眠狂四郎 TheFinal』の苦しい演出~『ギターを持った渡り鳥』、その函館ロケの映画的快感。

末尾ルコ「映画の話題で、知性と感性を鍛えるレッスン」

Mark Guilianaのミックス・リストを聴きながら、この文章を書いている。

『眠狂四郎』と言えば、「市川雷蔵」であって、それは雷蔵=狂四郎を熱烈に愛したファンにとって金輪際変わることのない思いであるに違いない。
リアルタイム雷蔵=狂四郎から遥か後の時代にファンになったわたしとてまったく同じ思いなのだ。
もちろん他の俳優たちの演じた『眠狂四郎』を貶めるつもりはまったくないが、雷蔵=狂四郎はもう不動の玉座に位置し続けているのであって、それは未来永劫変わることがない。
田村正和がテレビドラマで『眠狂四郎』を演じていたことは、「知っていたような、知らなかったような」といったところだった。
田村正和のファンだったことはない。
しかしこの2月、田村正和主演で『眠狂四郎 TheFinal』が放送されたもので、(ちょっと観てみようか)となった次第。

田村正和がテレビドラマ『眠狂四郎』で好評だったのは1972年のことだという。
高知で放送されていたかは知らないが、一度も観た記憶がないのは確実だ。
しかし『眠狂四郎 TheFinal』の田村正和が、72年の田村正和とあまりに違っているだろうことは容易に想像がつく。

『眠狂四郎 TheFinal』は表情にも身体全体にもまったく覇気がなく、顔ははっきりと映さないし、声もかすれて喉の奥からようやく出ているような感がある。
既に書いたように、わたしは72年放送の『眠狂四郎』を観ていないので比較はできないが、少なくとも『眠狂四郎 TheFinal』に関しては、主演がこの状態では愉しむことはできなかった。
もちろん作品全体の作りも実に緩く、主演俳優だけの問題ではないのだが。

ところで、『ギターを持った渡り鳥』を初めて鑑賞したのである。
「今頃初めてとは何だ!」の世界ではあるが、案外このようなエンターテイメントシリーズは、リアルタイムでなければ後回しにしてしまうものなのだ。
やはり「日本映画をしっかり観よう」という機運になれば、まず黒澤明、小津安二郎、溝口健二、成瀬巳喜男ら、「歴史的巨匠から」ということになるもので。

『ギターを持った渡り鳥』、おもしろかったのである。
以前から石原裕次郎にはピンとこないわたしだけれど、小林旭なら何となくしっくりきそうな予感はしていたが、正解だった。
敵役の宍戸錠もよかったし、全盛期の浅丘ルリ子も人形のような美貌だった。
それ以上に魅力を感じたのは、ロケ地である函館の撮り方だ。
横長であるスクリーンの形態を見事に生かし、胸のすくようなショットが連発される。
それは登場人物たちの背景でありながら、「もう一人の主役」と言ってもいいほどの映像的魅惑を発散し続けていた。