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●「美」という共通概念の中で、テニスとプロレス(例 力道山VS木村政彦あるいは上田馬之助)はどれだけ重なっているのか? [「言葉」による革命]

●「美」という共通概念の中で、テニスとプロレス(例 力道山VS木村政彦あるいは上田馬之助)はどれだけ重なっているのか?

末尾ルコ「テニスとプロレスの話題で知性と感性を鍛えるレッスン」

わたしがテニス観戦を愛する理由はもちろん世界トップ選手同士の圧倒的にエキサイティングな試合内容もあるが、それ以上に魅了されるのが、トップテニス選手たちが試合中に見せつけてくれる「美」である。
世界トップクラスのアスリートはどんなスポーツでも美しいものだと思うが、テニス選手たちの完璧なまでにバランスの取れた「美」は別格だ。
そもそもテニス選手たちは、体形自体が他のスポーツ選手たちよりバランスが取れていて美しい人が多いし、それが試合でコートの内外を、身体能力、運動神経の限界に挑みながらムーヴする姿は正に超一級の美術品なのである。

テニスとはあまりに違う世界だが、わたしが魅了された昭和のプロレスも審美的要素が濃厚な世界である。
「すべてが」ではもちろんない。
しかし時によりリング上に突如現れる「ものの見事な画」は、わたしたちファンの心に、
間違いなく「死ぬまで」刻印され続けることになるはずだ。
それはテニスが「人間の正統的な美の限界」を見せつけてくれるのに対し、プロレスは「フィクションとリアルの境界線で揺れ動く、誰もが明確に理解していない場所から湧き出てくる蜃気楼」とでも言うべきだろうか。

例えば、「力道山VS木村政彦」。
どうしても凄惨な「力道山のブック破り」に注目してしまうけれど、そこに至るまでのオーソドックスでクラシカルなプロレスのやり取りが実にコクのある美しい展開なのである。
派手な技は何一つなく、プロレスの基本たる組技や投げ技、そして「間合いを測る」ムーヴなどで構成されているが、今のわたしたちは後半の歴史的カタストロフを知って観ているからなおさら、その静かな造形美に悪魔が潜んでいるようにさえ見えるのである。

あるいは、仰向けに倒れている相手レスラーの首を、膝をつき執拗にクロウで締め上げる「まだら狼」上田馬之助の姿であるとか。

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いっぷく

力道山と木村政彦は、『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』(新潮社)を読むと、改めて木村はプロレスでもリアルファイトでも力道山の敵ではなかったのだろうと思いました。
そして同書は、プロレスを全く理解していない木村とその門下生が、敗北から何十年たっても現実を受け止められず、あいかわらずプロレスも理解できない時代錯誤の滑稽なものとして、そして一方で愛すべきものとして描いているのだろうと解しています。
私たちは、たしかに先に結末を知った上であの試合を見ているわけですが、木村側がそれほど愚かということは、当時すでに見る人が見れば、もう2人の差に気づいていたかもしれませんね。

上田馬之助ですか。そういえば、そんな光景よくありましたね。でもクローって、技がないレスラーが、技でつないで次の展開に持っていけないときに使うようなイメージが有るのですが。どうも上田に対する私のイメージはあまりよくないのでそう思えるのでしょうか。
猪木が「上田は技がキレない」とか言ってましたが、要するに上田は巧くないレスラーで、上田自身もそのへんわかっていたのかなという気もします。

ところで、武藤敬司のプロレスリングマスターズはいかがですか。私は最前列15000円払ってみようとは思わないのですが。第一戦から退いている人の同窓会的な興行ですから。全日本の2.9プロレスの川田や小橋は出ませんしね。
by いっぷく (2017-07-17 01:22) 

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